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水滸伝人物元ネタ一覧

水滸伝の武将は歴史書に元ネタがあることは学界ではよく知られている(と思う)。
しかし、一般向けの本でこの話が出てくることは殆ど無い。とりあえず、最も有名な宋江三十六人について。
といっても、元ネタ不明の人も結構多い。
<ほぼ確定>
托塔天王 晁蓋→北宋初期の趙匡胤(宋の太祖)
天魁星“呼保義”宋江→北宋末の宋江+北宋初期の趙匡義(宋の太宗)
天機星“智多星”呉用→北宋初期の趙普
天勇星“大刀”關勝→北宋末の同名武将+三国志の関羽
天威星“雙鞭”呼延灼→北宋初期の呼延賛
天平星“船火兒”張橫→南宋
天損星“浪裏白跳”張順→南宋

晁蓋→宋の太祖 宋江→宋の太宗 呉用→趙普は既に明治以前から言われていたようだ。

http://d.hatena.ne.jp/soei-saito/20100611/1276263159によると、
「 『水滸伝』の回で、三木竹二がサミュエル・スマイルズやジョン・スチュワート・ミルの翻訳で有名な中村敬宇が『水滸伝』について述べたという説を紹介している。
 それによれば、『水滸伝』は宋の建国の歴史を下敷にしているのだという。宋の基を築いた太祖趙匡胤の片腕として活躍したのが趙普で、彼は太祖の弟であり帝位を継いだ太宗にもよく仕えた。ところで、太祖には成人した二人の息子がいたにもかかわらず弟が帝位を継いだことに対しては、その正当性に対して古来疑いがかけられており、太祖の部屋から斧の音が聞えてきたなどというまことしやかな話も伝えられている。こうしたことが『水滸伝』の下敷になっているというのである。
 つまり、一番はじめ梁山泊の頭領であった晁蓋が太祖に当り、それを継いだ宋江が太宗ということになる。趙普に当たるのが呉用で、最初は晁蓋に仕えて梁山泊を再興したが、宋江が仲間に加わってからは宋江と近しくなり、兄に当たる晁蓋を戦いにやり、その戦いで晁蓋は毒矢に当たって死ぬのだ。そして、晁蓋は梁山泊の基を築いた人物であるはずなのに、百八人の仲間には入っていない。こうしたことによって、暗に正史にひそむ不義を寓しているというわけである。」
 この説には宮崎市定氏(『水滸伝 虚構の中の史実』)、大塚秀高氏(『天書と泰山 : 『宣和遺事』よりみる『水滸伝』成立の謎』)も同じような主張をおこない、大塚氏は「野史にある宋太祖暗殺疑惑の話が、正史『宋史』では消されたものの、『続資治通鑑長編』『楊家将演義』等に残っており、水滸伝はそこから着想されたものだろう。晁蓋の晁は朝であり、宋朝=晁宋となり、晁蓋宋江の名は宋太祖暗殺疑惑を連想させるものだ」というのである。宮崎氏は趙匡胤が若いころに弱きを助け強きをくじく男伊達で、晁蓋とソックリなことを上げておられる。『飛龍全伝』なる趙匡胤が暴れまわる講談さえあるのだから
 もうひとつ私が気づいたこととして、趙普がしばしば「学究」と呼ばれていることがある。「学究」は無論、呉用のあざな。

南宋の《楽庵語録・付録》に以下の様な記述があるという。(http://news.ifeng.com/history/zhongguogudaishi/detail_2010_08/09/1911812_0.shtml)
太宗欲相趙普,或譏之曰:普山東学究,唯能読《論語》耳,太宗疑之,以告普。普曰:臣実不知書,但能読《論語》,佐太祖定天下,才用得半部,尚有一半,可以輔陛下。太宗釈然,卒相之。

つまり、趙普は山東学究(山東の田舎学者)でしかないと言われていたのである。

他の四名は宋史に登場する。呼延賛、楊業、張順はいずれも列伝にある。関勝は列伝はない。その他、大塚氏がいうように、九玄天女は趙匡胤の母、杜太后であろう。
 こうなってくると晁蓋・宋江周りの女性達もモデルがいそうである。ちなみに趙匡胤には三人の皇后がいた。梁山泊の女将も3人である。何かあるのだろうか?

天閒星“入雲龍”公孫勝→不明。三十六人の中で後から加えられた人らしい。

天雄星“豹子頭”林沖→不明。三十六人の中で後から加えられた人らしい。
天猛星“霹靂火”秦明


  天英星“小李廣”花榮  天貴星“小旋風”柴進

  天富星“撲天雕”李應  天滿星“美髯公”朱仝

  天孤星“花和尚”魯智深→北宋の悪僧(by『夷堅志』)  

  天暗星“青面獸”楊志→北宋の楊業  

  天空星“急先鋒”索超→唐の李愬?  天速星“神行太保”戴宗→『夷堅志』王超

  天殺星“黑旋風”李逵→北宋末の宋江+北宋初期の趙匡義の暗黒面

  天微星“九紋龍”史進→北宋末の盗賊  

  天劍星“立地太?”阮小二→北宋末の張栄  天平星“船火兒”張橫→南宋

  天罪星“短命二郎”阮小五→北宋末の張栄  天損星“浪裏白跳”張順→南宋

  天敗星“活閻羅”阮小七→北宋末の張栄  

  天慧星“?命三郎”石秀→章惇  

  天巧星“浪子”燕青→宋史・李邦彦

高廉→平妖伝の王則 王英→元末の武将
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魏書卷九十五の匈奴劉聡伝・序文の簡単な訳

北魏の正史・魏書の卷九十五・匈奴劉聡伝・序文は三国から五胡十六国を、魏書の著者・魏収が概観したものである。
曹操の魏を継いだ北魏王朝の目線からの見かたで興味深いのだが、これまでほとんど注目されず、古田武彦氏が講演でネタにしたことがあったぐらいで、和訳もないので、簡単に意訳してみた。正直、故事成語を大量に駆使した流麗な四六駢儷文なので、それをキチンと訳すのは相当大変であり、これはあらすじだけの訳であることをおことわりしておく。

もっと簡単にいえば、「後漢末の乱世をせっかく、曹操様・曹丕様が平定したのに、逆賊孫権と逆賊で盗人の劉備が荒らし回り、変な格好のバカども(劉備と孫権)のせいで、そのお仲間のヤカラどもが乱立し、おかげで中国が滅んだ。劉備の後釜の劉淵一味、苻堅一味など五胡のヤカラと、孫権の後釜の司馬叡一味(東晋)は死ねばいいのに。で、曹操様の後継である我が北魏こそが正統王朝であり、ヤカラを平定したのは我々の功績である」というのですね。以下、原文(大分途中を削っている)の後に意訳をつける。

夫帝皇者,配德兩儀,家有四海,所謂天無二日,土無二王者也。三代以往,守在海外,秦吞列國,漢并天下。逮桓靈失政,九州瓦裂,曹武削平寇難,魏文奄有中原,於是偽孫假命於江吳,僭劉盜名於岷蜀。何則?戎方椎髻之帥,夷俗斷髮之魁,世崇凶德,罕聞王道,扇以跋扈,忻從放命。

(要旨)皇帝とは至尊の位であり、孟子が「天に二つの陽がないように、この世界の王も二つはいらぬ」というようなものだ。要するに皇帝は一人だけなのだ。しかし、秦漢の後、後漢末の桓帝・霊帝の失政のために中国は分裂してしまった。魏の武帝・曹操様は逆賊を平らげ、魏の文帝・曹丕様は中原を治めた。にもかかわらず、ニセ孫氏が呉を名乗り、ニセ劉氏の盗賊が蜀を名乗った。まったく、どうしたわけだろう?孫権・劉備というチョンマゲのバカ殿、ザンバラ髪の野蛮人共のせいで世は悪人を崇めるようになり、王道はまれになってしまい、悪事が横行して善事が引っ込んだ。

※椎髻は非常に訳しにくい言葉です。少数民族の髪型なんですけど、
http://oldblog.voc.com.cn/sp1/chenyongqiang/163004494578/1217494579715_494578.jpg
こういうやつなんですよね。チョンマゲでも弁髪でもニュアンスが違うんだよなあ。弁髪ではないのでチョンマゲにしましたけど…

※「蜀」というだけで本来は蔑称になる!といういい例だと思います。枕流亭主永一さんがいうように、「蜀ファン」とかいう言い方は本当はアカンのですね。劉淵はちゃんと「漢」と呼んでます。蜀というだけでもけなしているのですが、更に「僭劉、岷蜀に名を盜む。」と最大限にこき下ろしています。「偽孫」という言い方もひどい。(本項の書き下しは
@yunishio氏のツイッターでのご教示に従い改めました。ありがとうございます)

晉年不永,時逢喪亂,異類羣飛,姦凶角逐,內難興於戚屬,外禍結於藩維。劉淵一唱,石勒繼響,二帝沉淪,兩都傾覆。徒何仍釁,氐羌襲梗,夷楚喧聒於江淮,胡虜叛換於瓜涼,兼有張赫山河之間,顧恃遼海之曲。各言應曆數,人謂遷圖鼎。或更相吞噬,迭為驅除;或狼戾未馴,俟我斧鉞。

(要旨)西晋は短かった。内紛が起こっている時に夷狄どもにつけこまれて国が滅んだのだ。劉淵が騒ぎ、石勒がやかましくした。西晋の二人の帝(懐帝・愍帝)は劉淵一味に捕らえられて、いじめられた挙句に不幸な死を遂げられ、洛陽・長安は壊滅した。なんとひどいことだろう。更に前秦の苻堅だの、東晋の司馬叡だのが中国を荒らし回り、涼州には異民族がむやみに氾濫した。この連中を討伐しなくてはいけなかった。

太祖奮風霜於參合,鼓雷電於中山,黃河以北,靡然歸順矣。世祖叡略潛舉,靈武獨斷,以夫僭偽未夷,九域尚阻,慨然有混一之志。既而戎車歲駕,神兵四出,全國克敵,伐罪弔民,遂使專制令、擅威福者,西自流沙,東極滄海,莫不授館於東門,懸首於北闕矣。

(要旨)北魏の太祖様は風雪をものともせず、黄河以北を平定された。北魏の世祖様は優れた戦略で夷狄どもを潰し、天下統一の大志を抱かれた。こうして我が魏の神兵は中国全土を駆け巡り、民衆を保護した。西はシルクロードの砂漠、東は渤海まで平定したのだ。

劉備と劉淵の関係(岩波新書『三国志演義』の誤記?)

井波律子著『三国志演義』岩波新書、1994には、以下の様な記述がある。
「歴史上、たしかに劉淵という人物は実在する。(中略)しかし、この劉淵父子は漢と自称するものの、実は北方異民族の匈奴であり、もともと漢王朝や劉備とは縁もゆかりもない」

縁もゆかりもないというのは少々言い過ぎではないだろうか?
この本は誤りが多い本なのだが、なにしろ大手出版社から有名学者の名前で出ているので影響力が未だに在り、私が先日、劉備と劉淵の話をガジェット通信に書いたところ、「平話の話は虚構でしょう」という声が読者から寄せられた。なるほど、この新書を読めばそう思うと思う。この本は出版年代が古いため、三国志平話の研究も進んでいなかったこともあるし、私どものグループ「解体晋書」が活動を始める前であるから、晋書についても触れられていないのは仕方ないが、それにしても不備の目立つ本だと思う。

まず、三国志平話を論じるに当たり、この本は資治通鑑の当該箇所を見た形跡がないのである。当時の講釈師が資治通鑑をタネ本にしていたことは、この頃でも分かっていたのではないか…なにしろ、三国志演義の版本には「按鑑」(資治通鑑準拠の意味)というサブタイトルがついたものがあることは、かなり古くから指摘されていたはずである。

そして、通鑑にははっきりと劉淵が劉備の甥を称したこと、劉邦・劉秀・劉備を先祖として崇めたことが以下のようにわかりやすく書かれているのである。

通鑑の晉紀(第85卷)晉紀七 《孝惠皇帝中之下》 永興元年条には、以下のようにある。
 劉淵遷都左國城。胡、晉歸之者愈衆。淵謂群臣曰:「昔漢有天下久長,恩結於民。吾,漢氏之甥,約為兄弟;兄亡弟紹,不亦可乎!」乃建國號曰漢。劉宣等請上尊號,淵曰:「今四方未定,且可依高祖稱漢王。」於是即漢王位,〔劉淵,字元海。考異曰:帝紀,李雄、劉淵稱王,皆在十一月惠帝入長安後。華陽國志,李雄十月稱王,一本作十二月。三十國、晉春秋、十六國鈔皆在十月。今從之。〕大赦,改元曰元熙。追尊安樂公禪為孝懷皇帝,作漢三祖、五宗神主而祭之。〔淵以漢高祖、世祖、昭烈為三祖,太宗、世宗、中宗、顯宗、肅宗為五宗。〕

<書き下し>
 劉淵は左國城に遷都す。胡、晉のこれに帰する者愈よ衆し。淵、群臣に謂いて曰く、「昔、漢が天下を有すること久しく長く、恩を民と結ぶ。吾は漢氏の甥にして、約して兄弟となる。兄亡びて弟紹ぐ,また可ならんや!」
 乃ち、建國して漢と号す。劉宣等、尊号をたてまつるを請う。淵曰く、「今、四方未だ定らず、且つ高祖によって漢王を称すべし。」ここにおいて即ち漢王の位につく。
 胡三省の注にいう、〔劉淵、字は元海。〕大赦して,改元して元熙という。安樂公(劉)禪を追尊して孝懷皇帝と為し,漢の三祖、五宗の神主を作りてこれを祭る。注に言う、〔淵は漢の高祖(劉邦)、世祖(光武帝劉秀)、昭烈(帝劉備)を三祖と為す。太宗、世宗、中宗、顯宗、肅宗を五宗となす。〕

 なおこの記述は晋書「劉元海載記」をリライトしたものだが、司馬光の文章がわかりやすいのと、胡三省の注が親切なのとで、こちらを引いたのである。大塚秀高氏の論文には「北魏書にも同様の記述があるが、平話の著者は通鑑と晋書を見たのだろう」と推測しておられる。大塚氏によると、劉備を劉淵が祀る描写は晋書にのみあり北魏書にはないという。確かに北魏書匈奴劉聡伝には劉淵は漢の甥だとしか書かれていない。

 更に言えば、もうこの頃には私がかつて教えていただいた石川忠久先生に依る資治通鑑の抄訳もとっくに完成していたはずであり、そこにも漢主劉淵の記事は出てくるのである。

※石川・他訳『資治通鑑選』平凡社中国古典文学大系所収がそれである。これは通鑑の原文よみをしている人は一度読んだほうがいいと思う。石川先生はNHK漢詩紀行でおなじみだが、大変こなれた素晴らしい訳だと思う。

井波氏は通鑑の中華書局版を参考文献としてあげているが、石川先生の訳本はなぜか参考文献にあげていない。平凡社中国古典文学大系で三国志演義しか参考文献に挙げないのも不思議である。平凡社中国古典文学大系には、正史三国志の訳、本田済先生の『漢書・後漢書・三国志列伝選』があるのだが。しかも、『漢書・後漢書・三国志列伝選』は魯迅の親友である増田渉氏も関係していた本であり、正史の成り立ちについてはこの本の解説部分を読まないで語るのはどうかと思う(この新書の正史の成り立ちの部分は本田氏の本よりもあまり良くかけていないように私には思われる)。

晋書・資治通鑑・十八史略・新十八史略を比較してみる(王衍の最後)

えー、とりあえずネタ込みで。原文を比較してみます。

晋書卷四十三 列傳第十三
山濤(子簡 簡子遐)王戎(從弟衍 衍弟澄)郭舒 樂廣

辭曰:「吾少無宦情,隨牒推移,遂至於此。今日之事,安可以非才處之。」俄而舉軍為石勒所破,勒呼王公,與之相見,問衍以晉故。衍為陳禍敗之由,雲計不在己。勒甚悅之,與語移日。衍自說少不豫事,欲求自免,因勸勒稱尊號。勒怒曰:「君名蓋四海,身居重任,少壯登朝,至於白首,何得言不豫世事邪!破壞天下,正是君罪。」使左右扶出。謂其党孔萇曰:「吾行天下多矣,未嘗見如此人,當可活不?」萇曰:「彼晉之三公,必不為我盡力,又何足貴乎!」勒曰:「要不可加以鋒刃也。」使人夜排牆填殺之。衍將死,顧而言曰:「嗚呼!吾曹雖不如古人,向若不祖尚浮虛,戮力以匡天下,猶可不至今日。」時年五十六。

なんつーか、長いですね。ストーリーは王衍が言い訳→石勒喜ぶ→王衍やらかし→石勒激おこ→石勒と家臣の問答→王衍OUTと、笑ってはいけない晋王朝24時っぽくなっております。あと、なんか小説っぽい。突然殺されそうなときに:「嗚呼!吾曹雖不如古人,向若不祖尚浮虛,戮力以匡天下,猶可不至今日。」とか喋っちゃえるもんでしょうか?長台詞だよねえ。そこらへんが芸人魂なんでしょうか。(違う

通鑑
夏,四月,石勒帥輕騎追太傅越之喪,及於苦縣寧平城,大敗晉兵,縱騎圍而射之,將士十餘萬人相踐如山,無一人得免者。執太尉衍、襄陽王范、任城王濟、武陵莊王澹、西河王喜、梁懷王禧、齊王超、吏部尚書劉望、廷尉諸葛銓、豫州刺史劉喬、太傅長史庚金全等,坐之幕下,問以晉故。衍具陳禍敗之由,雲計不在己;且自言少無宦情,不豫世事;因勸勒稱尊號,冀以自免。勒曰:「君少壯登朝,名蓋四海,身居重任,何得言無宦情邪!破壞天下,非君而誰!」命左右扶出。眾人畏死,多自陳述。獨襄陽王范神色儼然,顧呵之曰:「今日之事,何復紛紜!」勒謂孔萇曰:「吾行天下多矣,未嘗見此輩人,當可存乎?」萇曰:「彼皆晉之王公,終不為吾用。」勒曰:「雖然,要不可加以鋒刃。」夜,使人排牆殺之。

文章量は以外なことに晋書と大差ないのですが、これは晋軍の武将を羅列したからですね。ストーリーはだいぶ違ってまして、王衍が言い訳→石勒激おこ→石勒と家臣の問答→王衍OUTとなっています。司馬光が見ていた野史が晋書の元ネタではないか?という説が昔からありますが、元々こういう話なのを晋書が「笑ってはいけない晋王朝24時」にしてしまったんでしょうか?

十八史略
執太尉王衍等、衍自言「少無宦情,不豫世事」勒曰:「吾行天下多矣,未嘗見此輩人,當可存乎?」或曰:「彼皆晉之王公,終不為吾用。」勒曰:「雖然,要不可加以鋒刃。」夜,使人排牆殺之。

これは又短い。しかしこうしてみるとわかりますが、この部分の十八史略の元ネタは完全に通鑑ですね。晋書はネタ臭いし、略すのがやりづらい文章なので、通鑑にしたのは正解でしょう。王衍が言い訳→石勒と家臣の問答→王衍OUTと、激おこ部分がないので「なんやこいつー、キモいわー、完全にアウトやー」(松本人志の声で)という感じになっております。編集能力高いですね。二三行でちゃんと分かるというのはエライ。山本夏彦さんが完本文語文で褒めるだけのことは有ります。ただし割りを食ったのが孔萇。後三国演義で孔融の孫という設定にしてもらい、怪物退治までしたことにしてもらったのに役名なしのエキストラ扱いです。孔萇もね、故郷のオカンとかに「おれ、年末のテレビ出るねん。『笑ってはいけない晋王朝24時』やで!石勒役の松本人志さんの付き人や!絶対見てな!」とかって言ってたと思うんですね。列伝も立ってないモブ武将としては。孔融が曹操にアボーンされてからこの方、漸く日の目を見る時が来たと思ったら、これはひどい。世界のヘイポー曾先之プロデューサーの鶴の一声で出番カット。あんまりです。オカンも悲しんでいるでしょう。孔萇、ガンバレ。きっとまじめに生きていればいいこともある!

新十八史略
日本語の打ち込みがだるいので略しますが、晋書+通鑑+やおい風の妄想という独自展開になっております。「しおしおと獄舎に引き立てられていく五十六歳ながらも西晋随一の白皙端麗な容貌が残る王衍」を、「合戦に生きてきた蛮将石勒はさすがに斬るのはやめたかったので」とか、そういうやおい系の話は原書には全然ないんですけど、この本はフツーに出してきますね。そういうボーイズラブとかぶっこまないでもらえますかねえ。孔萇はあいかわらず「ある人」呼ばわり。

小説十八史略
話しそのものをカットして、晋書が元ネタの劉曜と羊献容のラブロマンスにしちゃいました。それはないと思うなあー。羊献容が可愛いとか可憐とか絶世の美女とか、陳舜臣さんがあちこちで書いてますが、萌えるのは勝手ですが、晋書には一言も羊献容の容貌については書いてないんですよね。

中国中世の劉氏一族

最近、劉淵のことをかいたら色々と反響を頂いたので、三国時代後の劉氏について調べている。
ところが、劉氏という一族は生命力が強いのか、とにかく中世史の至る所に顔を出すのですね。
新唐書なんか劉氏がボコボコ出てくるんだよな。いやんなっちゃうよ。
歴代正史を読んでいるうちに取り敢えずまとめておく必要を感じたので以下にまとめる。

◎中世の劉氏の2つの流れ

中世の劉氏には2つの流れがあるようだ。1つは蜀の劉備を崇める匈奴系の北方の劉氏である。
もう一つは、前漢の高祖の弟・劉交を先祖と崇める彭城の南方の劉氏である。実はこの2つが
あちこちで王朝を立てては滅びしたのが中世だったと言えなくもない。

なお、これとは別に、劉備の子・劉禅を祖とする正統の蜀漢劉氏や、曹魏にいた劉氏なども
いるはずなのだが、どうしちゃったのかと思うぐらいにこの人々は姿を消しているのですね。謎である。

◎主な劉氏
1,匈奴系の北方の劉氏
便宜上、匈奴と戦った中山靖王末裔の劉琨一族もここに加える。

この人々は匈奴の王族の末裔である。まず劉淵が「我は漢王朝の甥である。兄が滅んだから弟が継ぐのは当たり前だ」
(晋書・劉元海)といって即位した(前趙光文帝)。この一族は一旦滅亡するのだが、なんとその後も復活しており、
有名な夏の赫連勃勃も通鑑胡注に「〔晉書曰:勃勃,字屈孑,匈奴右賢王去卑之後,劉元海之族,劉武之曾孫,劉衛辰之子。劉武,即劉虎,晉書避唐國諱,改虎為武。單,音蟬。〕」と出てくるように、劉氏一族を名乗っていた。
後に「母方の氏である劉氏は礼に背いているから気に入らない」といって赫連氏を別に建てた。
 劉琨一族は劉淵と戦っていたのだが、実はこの人も系統不明ながら中山靖王の末裔を称しており、鮮卑と一緒に戦っていたところを見ると、どうも同系の可能性もあるのではないか?
この他にも通鑑には「稽胡劉蠡升,自孝昌以來,自稱天子,改元神嘉,居雲陽谷;〔李延壽曰:稽胡,一曰步落稽,蓋匈奴別種,劉元海五部之曲裔也。」というように、匈奴劉氏が例えが悪いがゴキブリのように湧いて出てくるのである。
唐代になっても匈奴劉氏は頑張っていたらしく、あの詩人劉禹錫も一説には匈奴劉氏のようだ(自分では中山の劉氏だといっていたというが最近の中国の研究では匈奴系らしい)。
 この一派は劉淵が劉備に烈祖という諡を奉ったように何かと後漢・蜀漢を出す人々である。

2,南朝宋の彭城劉氏

この一族は前述の北方の劉氏とは全然関係がないどころか敵である。中興の祖は南朝宋の高祖劉裕。
宋書の武帝紀に長々と系譜が出ているが、中山靖王(劉邦の系統)ではなく、劉邦の弟・劉交の末裔である。
なんでも前漢の劉向もこの系統だそうだ。

http://liu-shi.web-16.com/Article.asp?id=625

によると、「彭城其他名人有東晉名將劉隗、劉牢之,南朝著名將領劉道產、劉康祖,梁文學家劉孝綽、劉孝威,唐代史學家劉知幾,邊塞大詩人劉灣,中唐詩豪劉禹錫,小說《世說新語》作者劉義慶,窮通大家劉芳,文學批評家劉勰,北魏大手筆劉懋,唐代詩畫家劉商,唐代文學家劉胤之,唐代傳奇小說家(沛人)劉軻,宋初著名隱士劉濤等皆彭城人,所以彭城成為劉姓的最大望族之一。」とすると裴松之先生はこっちの彭城劉家の子分なのね。道理でなんか蜀の筆が辛いと思ったんだよ。宋書に劉裕が前漢の張良を祭った祭文を載せているのだが、劉備は全然尊崇しないようだ。
プロフィール

松平俊介

Author:松平俊介
松平俊介(まつだいら・しゅんすけ)
雑誌ライターやwebディレクターをしております。webデザインからwebマーケティング、ライターまで何でもやっております。これまでに色々なプロモーションを手がけて参りました。過去には週刊SPA!等に関わっておりましたが、現在は「連載JP」(東京産業新聞社)や、neverまとめ(NHNジャパン)を中心に執筆しております。
趣味は街歩きと歴史研究です。

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