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信長の野望・天翔記の最強武将・鍋島直茂

昨日、レトロゲーム「信長の野望・天翔記」をやっていた。

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このゲームの最強武将は鍋島の殿、鍋島直茂みたいである。

なんかイキナリ大砲で鍋島にうち(プレイ大名はちなみに上杉景勝)の武将が3人ほど瞬時に射殺されたんですけど…物理で殴るの合わせたら10名ほど鍋島に殺されたわ…「死ぬことと見つけたり」ホントヤバイ。マジでやめて。ホント。隆慶一郎基準で一番強そうなのが鍋島直茂というのは妙に納得は行くけどなあ。生命力が他の武将より圧倒的にありそうだし。小説は未完だしな…


死ぬことと見つけたり(上)死ぬことと見つけたり(上)
(2013/07/12)
隆慶一郎

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ちなみに、「死ぬことと見つけたり」は小説としてほんとうに面白いです。
あと、皆んな勘違いしているけど、この小説に出てくる殿様は「鍋島勝茂」(鍋島藩二代藩主)であって「鍋島直茂」(鍋島藩初代藩主)ではない。

初代藩主は先輩の作家・中西豪氏が本を書いているのでこっちを読んでねー


史伝 鍋島直茂―「葉隠」の名将 (学研M文庫)史伝 鍋島直茂―「葉隠」の名将 (学研M文庫)
(2002/07)
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倉山満『嘘だらけの日中近現代史』の誤りについて(5)中国通史の認識誤認

倉山満『嘘だらけの日中近現代史』の誤りについて更に書こうと思う。

(元ツイッター)倉山満『嘘だらけの日中近現代史』の誤りについて



p44-p54には「中国各王朝の実態」と称して、王朝ごとの簡単な年代と解説が出ているが、その解説が「誤解」「中国共産党史観の丸写し」(日本の中国学界で否定)「誤記」が非常に多い。ブログにまとめるに当たり再度読みなおしたが読みなおすたびに誤りが出てくるのである。

まず、「中国各王朝の実態」でなぜ中国共産党の政策「夏殷周断代工程」で決められた年代をそのまま持ってきてしまうんだろうか。

 日本の学界では夏王朝実在性について疑問視しており、「夏殷周断代工程」はトウ小平の娘を親玉とする中国政府お声がかりのやつなんだけどね。それを何故、「嘘つきチャイニーズによるプロバガンダの手口をバラす!」という趣旨の本に書くのであろうか。

 ハッキリ畏友・永一氏が「夏商周三代の紀年について」(http://ww1.enjoy.ne.jp/~nagaichi/column03.html)で断じている通り「夏王朝については、中国では既にその実在を前提に議論が進められているが、欧米や日本では懐疑的な論調がまだ支配的である。」というのが日本の学界の通説である。

 例えば吉川弘文館の年表では夏王朝を認めていない。
 なぜ倉山氏は日本史学の通説を否定して、あたかも中国共産党におもねるように夏王朝を実在として年代もそのまま写したのだろうか?

p45「(殷の)紂王は酒池肉林の語源になるような淫蕩と悪政を繰り広げたので」…それは後世の諸子百家の宣伝だというのが通説である。実は「酒池肉林」を行ったのは夏の桀王だという史書も複数存在しており、(冨谷至『四字熟語の中国史』岩波新書)「嘘つきチャイニーズによるプロバガンダの手口をバラす!」という趣旨の本であればそのこともちゃんと書くべきであった。

p47「漢は武帝の外征で(匈奴の)属国の地位から脱します」…

この本にかぎらずネトウヨ嫌中嫌韓本の「属国」の定義はメチャクチャ。漢ー匈奴は「約して兄弟」なのだから対等国扱いである。国際法学では「属国」は「事実上、政治的、経済的に従属関係にある国。」なのだが、匈奴って漢からカネと宮女をもらっていただけなんじゃないんですかね。漢の皇帝が匈奴に認められないと即位できないとか聞いたことがないぞ。日本もODAを中国に出していたんだが、日本は中国の属国なのだろうか?

p47「『倭人』こと、日本人が文献史料に登場するのはこのころで、「百余国に分かれた国の一つの王が朝鮮半島の楽浪郡に朝貢に来た」とありますが、だからどうだというのでしょうか。」

漢書地理志の有名な記述「樂浪海中有倭人,分為百餘國,以歲時來獻見云。」(楽浪の海中に倭人あり、分かれて百余国となる。歲時をもって来たり、獻見すと云う)を誤解している。別に百余国のうちの一国が来たというわけでもないと思うのだが。「王が来た」とも書いていない。これは諸説あるところだが、例えば古田武彦氏は「倭の人は、百余国が時々定期的に朝貢してきて礼儀を尽くしている」と解釈している。他の論者もだいたい同じようである。「百余国に分かれた国の一つの王」という倉山氏の説は、かなり無理のある解釈ではなかろうか?

また、古田氏は前段の「「殷道衰,箕子去之朝鮮,教其民以禮義,田蠶織作。(中略)可貴哉,仁賢之化也!然東夷天性柔順,異於三方之外,故孔子悼道不行,設浮於海,欲居九夷,有以也夫!」
(大意:殷の箕子が朝鮮半島に来て民衆に農業や礼儀を教えたので、東夷の人々は他の蛮族と違い文明化されている。ああ、聖人が文明を伝えたというのは偉大なことだ!だから孔子も『私の道は中国人にはよくわからないようだ、海を渡り東夷へ行きたいものだなあ』と嘆いたというのもよく分かる)と合わせて解釈している。これは伊藤仁斎『論語古義』などにも似た説が出ており、「孔子は日本に憧れていた」という有名な説の元ネタであるが、どうして倉山氏はそこを略すのであろうか?

p48「倭などと『チビ』『猫背』の意味で読んでくれていたのが中国人です」…それは藤堂明保説(『学研漢和大字典』)であって古来の解釈ではない。なぜ右派の倉山氏が左派系の藤堂明保説を突然持ってくるのか良くわからない。
 単に中国人を貶めるための目的で左派の説まで動員したのであれば、思想的に純粋ではないし、おまけに藤堂説が学界で通説になっているわけでもないのである。
 漢字の解釈で古来最も権威があるとされている『説文解字』では全然別の説を述べているのだ。
(説文解字)
「順貌。(段注)倭與委義略同。委、隨也。隨、從也。」
从人。委聲。詩曰。周道倭遟。(段注)小雅四牡文。傳曰。倭遟、歷遠之貌。按倭遟合二字成語。韓詩作威夷。故與順訓不同。而亦無不合也。」
(意訳:倭とは順うさまである。委と同じ意味である。随う、従うと同じだ。※人に属する。詩経・小雅・四牡には「周道倭遅(いち)たり」とある。詩経の毛亨の注釈[毛伝]によれば「倭遅」とは遠くめぐり連なるという意味だ)
なお、白川静博士の『字通』でもこの説文解字及び段注の説をほぼそのまま用いている。
※竹内実『新版中国の思想』(NHK出版)では、「道義に従う」と解釈している。これは室町時代の学者・一条兼良の、説文解字を敷衍した『日本書紀纂疏』の説に従ったのであろう。

 なお、学習院大講師の王瑞来氏の論考『「倭」の本義考――あわせてその意味変遷を論ずる――』(http://salon.gooside.com/wakao.htm)によると、倭を蔑称だとするのは『新しい歴史教科書』にも出てくる説だが、漢字「倭」にはもともと悪い意味はなかったという。
 王氏によれば、五胡十六国時代には「燕の魯陽王(慕容)倭奴」という王族までいたという。わが聖武天皇の宣命に「大倭国」というのだから、「(倭を悪字とするのは)おそらく文字学の知識が乏しいための誤解か,あるいは故意に本義を無視して曲解したものであるとしか思われない。」と断ずる王氏の説はなかなか説得力がある。

p49「晋は建国当初から内紛が絶えず(安定した年が、一年としてない)」…いいすぎ。武帝期は安定して人口も増えている。

南北朝時代を「これまでとは比較にならないほど安定した統治」(p50)と言い出すのも訳がわからない。…いなかったことにされた宇宙大将軍キングカワイソス…あと東魏も西魏も政治的には混乱していた。

p51「倭王武が長々と演説」…上表文と演説を混同。

p52「この王朝(唐)の前半150年くらいは文化大国なのですが、それ以降は三国時代と変わらない戦乱と殺戮で衰亡していきます」…安史の乱以降復興してますけどね。

p52「あきれた日本はもはや学ぶものはないと菅原道真が遣唐使を廃止し」…遣唐使廃止は894年で唐滅亡寸前です。

倉山満『嘘だらけの日中近現代史』の誤りについて(4)三国志誤読箇所

倉山満『嘘だらけの日中近現代史』の誤りについて、連載第4回目となる。今回はp34-43の、「第一章第三節 『インテリヤクザ』諸葛孔明の真実」の部分である。これはブログコメントで三国志の誤りはないのかとリクエストされたからである。誤りと思しき箇所はいっぱいある。正史三国志、資治通鑑、三国志演義毛本、立間祥介訳、吉川英治版を参照しましたがどれとも全く似ていない謎のエピソードが幾つも出てきている。

以下、倉山満『嘘だらけの日中近現代史』を「倉山本」と略す。今回は余りにも多いので、目次をつけることにする。
1,「曹操の本拠は北京?」
2,「『三代奇書』?」
3,「陳寿の賄賂要求?」
4,「諸葛亮はコネ頼み?」
5,「張飛が泣く?」
6,「奇門遁甲は星占い?」
7,「諸葛孔明ビルマ(ミャンマー)侵略?」



1,「曹操の本拠は北京?」
倉山本P35「(劉備たちは)北京あたりで勢力を持った軍閥・曹操の誘いも断り茨の道を進む」


 曹操の根拠地は移動しているが、最終的な魏王国の首都は魏郡鄴[ギョウ]都(現・河北省邯鄲[かんたん]市)である。
北京(後漢の幽州薊県)を本拠としたことはない。銅雀台も鄴にあったし、魏という国号の由来がそもそも魏郡鄴を領地としていた為に魏公に封ぜられた時に始まるのだからお話にならない。信長の根拠地は安土城(現・近江八幡市安土町)だったが、それを「新潟周辺」というようなもので、支離滅裂である。
 なお、魏(鄴)である現在の河北省邯鄲市と、北京とは400キロ位地図で見ると離れているようだ。安土から北へ400キロ行くと日本海のどまんなかに行くんですよねえ…陸地沿いでも新潟だよ…
 
 この頃の北京は余り大きな都市でもなかったようで、三国志には公孫瓚(コウソンサン)が劉虞を斬った話で多少登場する程度である。曹操は、207年の烏桓討伐の時にちょっと通ったかな?という程度である。
本拠どころの騒ぎではない。

 このあたりのことは三国志演義でもちゃんと書いてある。「北京あたりで勢力を持った軍閥・曹操」は倉山氏によれば「通説」だそうです。そんな通説聞いたことない。
 なお、正史三国志の「北京」の検索結果「0」であった。地名すらなかったのである。
2,「『三代奇書』?」
「(三国志)演義は、孫悟空が活躍する『西遊記』や、ヤクザの群れが梁山泊に集結する『水滸伝』とともに、
「三代奇書」と呼ばれます」(倉山本p37)


倉山氏は三「代」奇書とは書かないで欲しかったなあ。四大奇書が正しい。これはちゃんと故事成語なのだから正しく書くべきである。「馮夢竜亦有四大奇書之目,曰三国也,水滸也,西遊与金瓶梅也。」(明の陽明学者・小説家の馮夢竜が四大奇書を定めた。それは三国志演義・水滸伝・西遊記・金瓶梅である)と清の文人・李漁(りぎょ)が述べていて、それに由来する。編集者も辞書ぐらい引かなかったのだろうか?校正をしたのだろうか?
3,「陳寿の賄賂要求?」
「著者の陳寿はある人物を高く評価しようとして登場人物の子孫に高額の原稿料を要求したという話が残っています」(倉山本P37)


 これは有名な晋書・陳寿伝のガセネタである。

「據《晉書》記載,當時傳聞陳壽曾向丁儀、丁廙的兒子索取立傳費,說:「可覓千斛米見與,當為尊公作佳傳。」結果被拒絕後,陳壽竟然就不為享有高名的丁氏二人立傳。據《三國志·魏書·任城陳蕭王傳》記載,陳壽出生前13年(220年)丁氏兄弟和全家男性就被曹丕殺,根本無後代。如採信此說法,則晉書的記載爲謠言。」
(晋書には、陳寿が丁儀、丁廙の息子に高額の原稿料を要求した話が出てくるが、この丁儀、丁廙の息子は陳寿が生まれる13年前の西暦220年に殺害されているのだから、そもそもそんな人物が居たはずがない。晋書がデマを載せただけだ)
という中国語版ウィキペディア(この記述そのものは清朝考証学者の説に基づく、詳しくは本田済『漢書・後漢書・三国志列伝選』平凡社の解説を参照)の解説で十分であろう。
4,「諸葛亮はコネ頼み?」
「(孔明は)まず、呉で重臣となっている兄の諸葛瑾のコネを頼り、(呉の)朝廷に乗り込みます」(p39)


孔明は諸葛瑾のコネなんか頼ってないです。これは演義も歴史書も吉川版も全く同じですが、呉の魯粛が偵察がてら劉備に会いに来る→孫権・劉備同盟というのが流れである。この辺りは演義の記述は史書をちゃんと踏襲している。

例えば吉川英治はこう書いている。なお、三国志演義でもこの辺りの描写はほとんど同じ(細部は違うが)。
 「魯粛は慎重に、孫権の諮問にこたえた。
「劉表の喪を弔うという名目をもって、私が荊州へお使いに立ちましょう」
「……そして?」
「帰途ひそかに江夏へおもむき、玄徳と対面して、よく利害を説き、彼に援助を与える密約をむすんで来ます」
(中略)
孔明は、「ごらんなさい。今にきっと呉から使者が来るにちがいありません。」(中略)
(周囲は怪しんだが、魯粛は)ほんとうに江夏を訪れて来た。
「呉主孫権の名代として、故劉表の喪を弔うと称し、重臣魯粛と申される方の船が、いま江頭に着きました」
(中略)
(劉備と魯粛が話し合っている席に諸葛亮が呼ばれ)
「亮先生。――自分は先生の実兄とは、年来の親友ですが」と魯粛は、個人的な親しさを示しながら、彼に話しかけた。
「……ほ。兄の瑾をよくご存じですか」と、孔明もなつかしげに瞳を細めた。
(吉川英治『三国志』赤壁の巻より http://www.aozora.gr.jp/cards/001562/files/52415_51066.html)


ぶっちゃけ、魯粛は今で言えば業務提携を結びに同業の会社に来た営業マンみたいなもので、その時に諸葛孔明にも会ったので「いやーどうも、諸葛瑾アニキの弟さんですねお元気ですか」とやっただけなんですけどね。孔明自発的にコネなんも使ってないんですけど。

それどころか三国志演義四十四回「孔明用智激周瑜 孫權決計破曹操」では、諸葛瑾は孔明に「俺たち兄弟別れ別れってのは良くないよな?劉備を裏切ってうちに来ない?」と誘って「やだなーアニキこそ、劉皇叔様の家臣になればいいじゃないですかやだー」と返されているわけで全然コネ使わないですね。
5,「張飛が泣く?」
「(曹操を逃した関羽を)戦後の軍議では孔明が軍規を破った関羽の処刑を主張し、張飛が泣いて許しを請い」(p39)

 張飛なんか出てこないんですけどね、その場に。
6,「奇門遁甲は星占い?」
「曹操の寿命が尽きていないことを星占い(奇門遁甲)により知っていた孔明は(中略)天才・孔明は最初からすべて読んでいた、という筋書き」(p39) 


この話はどこにあるのかよくわからず、これも誤りかと思ったが、むじんさんにお教えいただいた。三国志演義第49回にあることはある。ただ引用が変である。

「玄德曰、『吾弟義氣深重、若曹操果然投華容道去時、只恐端的放了。』孔明曰、『亮夜觀乾象、操賊未合身亡。留這人情、敎雲長做了、亦是美事。』玄德曰、『先生神算、世所罕及!』」
(玄徳がいうのに、「弟は義を重んじること深い、曹操が華容道に来ても逃すのではないかと思うがな…」孔明答えて「拙者、夜に「乾象」(天文現象)を見ますと、曹操めの命は尽きておりませぬ。雲長殿に義理を果たさせる良い機会と思います」玄徳「先生の神算鬼謀はまったく感服いたします)[立間祥介訳を元にやや改めた)

星占い(奇門遁甲)というのはなくもがなの注であり、星占い(天文占、天文道)と奇門遁甲とは違うものである。天文占の例を上げよう。
晋書天文志下「明帝太和五年五月,熒惑犯房。占曰:「房四星,股肱臣將相位也,(中略)將相有憂。」其七月,車騎將軍張郃追諸葛亮,為亮所害。十二月,太尉華歆薨。」
(訳:魏の明帝曹叡の太和五年五月、熒惑(けいわく、火星のこと)が星座・房宿(さそり座)に現れた。占いによれば、「房の四星は、股肱の臣、将軍・宰相の位である、(中略)有力な将軍・宰相に良くないことがあるだろう。」ということだった。その七月,車騎将軍[元帥陸軍大将]の張郃が蜀の諸葛亮に追撃され,諸葛軍に討たれてしまった。十二月、太尉[総理大臣]の華歆が薨じてしまった。)
すなわち、火星が将軍・宰相の位である房宿(さそり座)に現れたので魏の文武の要というべき張郃(ちょうこう)・華歆(かきん)、元帥と総理が死んでしまった予兆だというのである。星占いというと恋占いのようななんとなく女子っぽい語感があるので「天文占」と書いていただきたいところだ。

 では奇門遁甲はどうかというとこれは方角占いであって、前出の天文占とは全然別である。北海道大学の猪野毅先生が「奇門遁甲は方位学(空間の学、洛書学)であり、干支学(時間の学、暦学)でもある(http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/handle/2115/44606)」といっているのがわかりやすい。『後漢書』方術伝などに出てくるのが初出という。

7,「諸葛孔明ビルマ(ミャンマー)侵略?」
「孔明は今の雲南省やビルマ、ベトナムあたりから人を大量拉致していたということです」(p41)
 
これについて、「…ファッ?!もう何がいいたいんでしょうか。演義でも孔明はビルマ遠征なんかしてないです、もうなんなんだか」とツイッターでコメントした所、清水代歩さん( @kaho_biz)から情報を頂いた。

「「孔明ビルマ遠征」←横山光輝の漫画で木鹿王の八納洞を「ビルマ・インドのあたり」としてました。http://ncode.syosetu.com/n8686m/64/によると中国の学者でそのように主張している人もいるようですが、それをそのまま信じるのかと。しかしベトナムというのは???」


早速調べてみた。この諸葛孔明ビルマ遠征説というのは確かにある。しかし、その根拠は甚だ貧弱なものである。保守系論客(だと思う)の倉山氏が中国の学者の主張を鵜呑みにするようなことはするまいと思うのだが…なお、ベトナムに至っては根拠すら不明である。

この、諸葛孔明ビルマ遠征説は中国の百科事典「百度百科」にも「深入不毛」として立項されている。

成都学者李定与早在上世纪80年代就研究过《出师表》中的“不毛”一词,并有多篇论文发表。在80高龄时,他又根据《大理古佚书钞》中三位明代学者关于诸葛亮南征的研究,沿着诸葛南征的路线,从成都出发,行程75天,最后到达缅甸,发现了许多前人未曾注意到的新论据。后来李先生写出了《<出师表>中“泸”与“不毛”的地理位置》和《诸葛亮南征地理位置考释》等文,发表于《云南时报》、云南《保山日报》和云南《高黎贡》杂志。
以“不毛”称缅甸的,还有唐初四杰的骆宾王。他的《从军中行路难》诗云:“去去指哀牢,行行入不毛”诗中“不毛”,值得也是缅甸。(http://baike.baidu.com/view/1856674.htm)


おおまかに訳すと、「成都の学者、李定という人が既に1980年代から「出師の表」の“不毛”という言葉について論文をたくさん書いた。彼の根拠は『大理古佚書鈔』の中で、三人の明代の学者が主張する「諸葛亮は成都を出発して75日掛かったので、ビルマ(ミャンマー)に到達したに違いない」という説だ。ところが、それ以上の根拠がなかったのであまり注目を引かない説であった。李さんは現地紙の「雲南時報」等に発表した論文で、「唐の駱賓王の詩に「行行入不毛」とある、不毛即ちビルマ(ミャンマー)のことだ」とした。」というのだ。要するに似た音の地名を無理やりこじつけた話である。

中国でもこの説は余り評価されていないのである。李殿元・李紹先著『三国志考証学』(和田武司・訳、講談社)という優れた三国志演義の考証本があるが、この本では「不毛は正確なことを言っているわけではなく、漠然と『深く荒野の地に入った』『深く草木の生えぬ地区に入った』という意味が通説」とし、「不毛というのは元々地名ではない、ミャンマー[ビルマ]、バモーなどの音が近いところを指すことはありえない」と断じている。

ここまでひどい三国志の記述も、なかなかないと思われる。

倉山満『嘘だらけの日中近現代史』の誤りについて(3)

前の投稿に引き続き、倉山満『嘘だらけの日中近現代史』の誤りについて記述したいと思う。
なお、この連載のサブとして、トウギャッターに私のツイートしたものをまとめたものもあるので、
以下にリンクをしておく。

倉山満『嘘だらけの日中近現代史』の誤りについて

 今日現在で既に16055件のアクセスが有った。こちらのまとめの方で、むじん書院のむじんさん、「dragoner.ねっと」のdragonerさん等、たくさんの方から激励やご指摘を頂いた。ほんとうに有難いことである。なお、トウギャッターの上部に表示しているタグは、読者の方が付けたものであり私の付したものではない。はじめは私も2ちゃんねる調で書こうかとしていたが、某掲示板で、なんだか倉山氏じみた文体になっており、事実を淡々と述べていくほうが優れているというご指摘を受けて改めた。それがこの手のトンデモ本の指摘としては最も優れた方法だと思う。2ちゃんねるの倉山満スレや「カリスマの砦」なる倉山氏の掲示板(?)も見たが、そこにもこのサイトのURLが貼られていた。私は浅学非才の身、ただただ戒慎恐懼するばかりである。

 さて、指摘を続けたい。

4、倉山氏の先秦思想(孔子・韓非子)解釈の誤り・その1 孔子


倉山「嘘だらけの日中近現代史」P28~31
P28「大陸では、毛沢東が突如として『孔子は封建的だから批判せよ』と言い出してから儒学は肩身が狭くなります」

 孔子・儒教批判は既に後漢の王充、明の李卓吾などが行っており、近現代中国では五四運動で李卓吾の説を元に呉虞(ごぐ、1872‐1949)などが盛んに儒教批判、孔子批判をやっているのである。魯迅の『狂人日記』もその延長線上にある。毛沢東はその説を政敵追い落としに使っただけのことである。毛沢東は孔子批判の元祖でもないし突如おっぱじめたわけでもない。

p29「そもそも、今に伝わる孔子は、生涯成功しなかった経営コンサルタントのようなものです。孔子は春秋時代(紀元前五五一年~紀元前四七九年没)の人ですが、生涯付き従った弟子はわずか七十人という、決して成功者とは言えない人生を送りました。この時代のコンサルタント(諸子百家と言われるほど多くの競合者がいました)は、成功すると大国の宰相に抜擢されます。」「孔子はハッキリ言って負け組でした。」

 孔子は天下は取れなかっただけで、十分成功していると思うのだが。孔子は五十二歳の時に「魯の中都の宰(中都という町の町長)」になり、功績で前500年春には大司寇(法務大臣)になっている。その前にいつか分からないが司徒(外務大臣)もやっている。晩年は国老(元老)として厚遇されていた。(史記・孔子世家。官位の解釈は貝塚茂樹『論語』中央公論社の説により、百度百科などで補った)

 これは実は破格の待遇である。諸子百家で閣僚にまで上り詰めたのが確実なのは他に管仲(管子、斉の丞相[総理大臣])、商鞅(秦の丞相)、呉起(楚の令尹[総理])、李克など意外と少ないのである。商鞅や呉起より下だから孔子は失敗したというのもどんなものか。二人共悲惨な死を遂げていて成功者と言えたものかどうか。孔子より官位が上で畳の上で死んだ諸子百家の大物は管仲くらいであろうか。
 内閣参与レベルでも孟子くらい、将軍クラスで孫武・孫ピンくらいだから、孔子を成功しなかったというのもなかなか大変である。
 諸子百家が全部成功者だったかというと随分疑わしい。縦横家の蘇秦が六国の丞相を兼ねたというのは現在では疑問視されていて彼の官位はよくわからないし(詳しくは『世界の歴史2』中央公論新社参照)、荀子は地方県令止まり、韓非子は生涯無役、老子・荘子はノンキャリアの小役人止まりであった。

 弟子七〇人というのも誤りである。「弟子蓋三千焉,身通六藝者七十有二人」(孔子世家)という。孔子の弟子は七十人というのは子供のお習字の教科書の「三字経」が覚えやすく概数を言ったまでにすぎない。倉山氏はこの間の「チャンネルクララ」の放送でも同じようなことを言って、ドヤ顔で「孔子は失敗した大前研一みたいな人ですよ!」と言っていた。大前さんにも失礼だと思うし、誰か恥ずかしいから放送関係のスタッフは指摘してあげた方がいいよ。
 それから、孔子世家に付き従った弟子の数の記載はないです。

倉山満『嘘だらけの日中近現代史』の誤りについて(2)

昨日に引き続いて、倉山満『嘘だらけの日中近現代史』(扶桑社新書140,2013)の誤りについて記述する。
なお、底本には2014年1月31日の初版第12刷本を用いたが、初版初刷なら分からないでもない凡ミスが、
この本は何故か大量に出てくるのである。

3,間違いだらけの秦王朝滅亡「三世皇帝?」「鹿が馬?」


倉山氏は言う。
「秦は、二世皇帝の時代にはもう腐敗と動乱が始まり、三世皇帝の時代に始皇帝の死後三年で滅んだのは記述のとおりです。「馬鹿」という言葉が生まれるのもこの時代です。つまり皇帝が馬を見せて『これは鹿だ』と宣言し、『いえ陛下、これは馬です』と間違いを正した家臣を殺したという逸話に由来します。」(同書P24)
今後の引用文は、上記のように誤記もしくは学問的に誤謬の有るおそれのある箇所は字を大きくし、下線を引くこととする。

この短い文章で既に4箇所も誤りがあるのである。

1)三世皇帝 
 秦に三世皇帝などという人物は存在しない。なぜかといえば、二世皇帝の末期には既に反乱軍が旧・秦国以外の領域をほとんど支配しており、王朝の体をなしていなかったので、二世皇帝の後を継いだ子嬰は「秦王」と称して三世は名乗らなかったからである。このあたり史記でも通鑑でも読んでおれば分かりそうなものである。

2)馬鹿という言葉
 この言葉の語源には諸説あるが、この逸話を出典とする説はかなり疑問があり、現在ではほとんど顧みられていない。まず、「馬鹿」を音読みして「バカ」とならない(バロクとしかならない)という点が最大の弱点である。現在有力なのは、天野信景の梵語「莫迦」語源説、佐藤喜代治の禅語「破家」語源説、松本修の白氏文集「馬家」語源説の三説であろう。詳しくは松本修『全国アホ・バカ分布考』(新潮文庫)をお読みいただきたい。

3)皇帝が馬を見せて『これは鹿だ』と宣言し
 史記秦始皇本紀を見る限り、丞相の趙高が皇帝位を乗っ取ろうとしてやったことである。皇帝がいったのではない。以下に史記当該部分の原文を引く。
「八月己亥,趙高欲為亂,恐群臣不聽,乃先設驗,持鹿獻於二世,曰:“馬也。”二世笑曰:“丞相誤邪?謂鹿為馬。”問左右,左右或默,或言馬以阿順趙高。或言鹿(者),高因陰中諸言鹿者以法。後群臣皆畏高。」
 すなわち、丞相の趙高が帝位に登る野望を持ち、おのれの意に臣下たちが従うかどうか試そうとして、鹿を持ってきて「馬だ」といったのである。この違いは大きいよ。あと、馬と鹿がどこでひっくりかえったんでしょうね…史記を読んでおればこんなミスはしないのである。

4)『いえ陛下、これは馬です』と間違いを正した家臣を殺したという逸話に由来します。
 相手が丞相なんだから陛下なわけがないんですが…馬と鹿をまた勘違いしている。

 このように、わずか数行で次々に誤りが出てくるのである。

 ちなみに、史記は太平洋戦争中、学徒出陣した将校の方々にも読者があり、もはや靖国におられる方々や、その戦友の方々にも史記研究家はおられたのである。例えば、小竹文夫氏(史記の現代日本語訳を初めて行った)・武田泰淳氏(名著『司馬遷ー史記の世界』の著者)などである。戦地で史記を紐解かれた方も多く、「シナはこんなことでどうなることじゃ…だが、わたしはシナを史記があるかぎり見捨てんよ」と小竹氏は戦地で述懐されたそうだ。
 小竹文夫・武田泰淳・牧田諦亮の三氏は陸軍にいたが終戦処理で中国に残っていた。昭和21年、三人で正月に史記滑稽伝を読んでうたた感慨に堪えなかったという。その頃日本では鈴木貫太郎首相が部下から貰った史記を喜んで読んでいた。
 こういう命がけで日本のため、東アジアのために働かれた方々の過去の業績を粗末にしているように私には思える。
 そういう経緯もあり、史記は昔の反中保守知識人にも愛読者が多いのだ。日本人は史記が好きだし、史記そのものが中華思想に反対して匈奴を褒めているので、反中知識人でも昔は史記を褒める人が多かった(渡部昇一とか谷沢永一とか)のである。渡部昇一氏は十八史略名言集を書いているぐらいだ。
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松平俊介

Author:松平俊介
松平俊介(まつだいら・しゅんすけ)
雑誌ライターやwebディレクターをしております。webデザインからwebマーケティング、ライターまで何でもやっております。これまでに色々なプロモーションを手がけて参りました。過去には週刊SPA!等に関わっておりましたが、現在は「連載JP」(東京産業新聞社)や、neverまとめ(NHNジャパン)を中心に執筆しております。
趣味は街歩きと歴史研究です。

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