連載jpの寄稿記事、
ネットで人気!大河ドラマの素浪人「荒木村重」って、誰?!で十分書けなかったことを少し書いておく。私は、荒木村重の有岡城落城の時に処刑された人名・人数には誇張が多いと今の段階では考えている。定説では、村重の妻・だし以下600人以上が残酷な殺され方をした…とあるのだが、
(妙ではないか)
と私は感じるのである。その根拠はこうだ。
実は、有岡城が陥落した時に京都で処刑された人名については、
史料ごとに人名が著しく異なっておりどれが本当かよくわからない。『立入宗継記』には、「処刑されるのを見ている人間は沢山居た」とあり、『陰徳太平記』にも、見物人は皆涙を流したとあるのに、おかしなことではないか。江戸期の市中引き回しの時には、罪人の前に名前と罪状を記した高札を出していたという。この頃も同じようなものだったのではないか。だから、史料ごとに人名が違うのはおかしな話である。以下に、信憑性が高いとされる『信長公記』『立入宗継記』の人名を掲げる。この2つの資料はまだしも共通点がある。下線がある人は両者で似たような名前がある人である。
なお、『陰徳太平記』は全く別の記事を載せている。『信長公記』
吹田 荒木弟丹後後家
あらき妹
荒木娘たし荒木娘
吹田女房
渡辺四郎
荒木新丞
宗察娘
伊丹源太夫女房及び八歳の子
瓦林越後女
北河原与作女房荒木与兵衛女房池田和泉女房
たし妹二人伯々部荒木自念
この他子供七八人
『立入宗継記』
荒木摂津守女房出(だし)殿出殿の妹二人摂津守弟はうかへ摂津守娘荒木久左衛門の子
いはらき隼人が御地(三つ子を抱き共に生害)
荒木与作女御局
荒木与兵衛女房この内、荒木弟・吹田とあるのは吹田城主の荒木(吹田)村氏で、村重の弟。寛永伝に名前が見える。
ところが、他の史料と付き合わせてみると更に妙なことになる。実はこの内何名かがその後も生存している
と思しき記録があるのだ。もっとおかしなことは、荒木家の子孫の系譜には、一切有岡落城処刑事件について
記載がない、というのである。
1,伯々部51歳
この伯々部というのは丹波の豪族・波々伯部氏(ははかべ・ほうかべ)の人物であろう。丹羽基二氏が「波々伯部は伯々壁などとも書く」と書いている。
荒木村重も丹波の豪族だから、ここにこの人物がいるのはよく分かる。ところが、
この波々伯部氏当主・
波々伯部六兵衛光吉はその後も資料に生きて登場するのである。
以下に
「武家家伝」を引く。
やがて天正三年(1575)、天正五年(1577)、織田信長の命を受けた明智光秀の丹波攻略が始まる。波多野氏をはじめとする丹波国人衆は果敢に戦い、明智軍をおおいに悩ました。手を焼いた光秀は八上城を包囲して兵糧攻めの作戦をとった。ついに、天正七年に至って、食糧も尽き城中は困窮、城主を捕えて降参せんとする者らも出てきた。波々伯部光吉も八上城籠城の一人であったが、光吉はその企てに同ぜず、妻の兄荒木山城守らの説得もあり、八上城を落ちることに決め、荒木氏の居所に退いた。
その後、光秀に降伏した波多野兄弟は安土城下に送られ、そこで信長によって殺害された。八上城も落ち、丹波の戦国時代にも幕が下ろされた。波々伯部光吉は荒木氏とともに八上々町に移り、さらに新町に移って農業と酒造業を営み繁盛した。江戸時代の寛文四年(1664)に庄屋となり、ついで元禄六年(1694)に大庄屋となった。さらに享保十六年(1731)には名字帯刀を許され、波々伯部の姓を短 くして「波部」と改めたと伝えられている。いま、雑木におおわれた淀山城址に登ると、かつて本丸であった削平地の一角に子孫の手になる波々伯部氏の顕彰碑が立っている。
有岡城で処刑されたことのカケラもないのにはさすがに驚く。複数のウェブページで「伯々部左兵衛」という表記もあるが、この人は系図に出てこない。
2,荒木村重娘
竹本弘子氏の論考に以下のようにある。
黒田官兵衛も、城主から殺せとの密命をうけながらも、牢屋に入れたままで殺してない。後に、官兵衛は感謝して、村重の子孫を黒田藩に召し抱えた。荒木家の墓は博多区妙楽寺にある。息女は黒田家臣の間家・田代家の正室として迎えられた。また、息子又兵衛の歌仙絵が福岡若宮八幡宮で発見されたが、その当時は何故福岡にあるのかが分からなかった。
荒木村重の娘は信長公記では隼人女房とおほてが登場し、二人とも処刑されたと言い、立入宗継記では一人処刑されたというが、それ以外に別の娘が居たというのも考えにくい話しである。信長公記には
「村重の娘だご」という人も登場して処刑されている。
おほてとあるべき所を誤記したものと思われるが、この辺りの太田牛一の書きぶりは何か王朝物語からコピペしてきたかのように空疎な美文調で、他の部分と比べて
現実味がほとんど感じられない。いかにも後から作ったもののようである。
更に、毛利側の『陰徳太平記』巻六十一「摂州在岡落城之事」は、こう書く。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/772381
「宇喜多家・南条家が毛利を裏切ったので、毛利家の援軍は来なくなってしまった。有岡城に籠城中の荒木村重は進退窮まり、城の兵糧も尽き、援軍も来ないので、家中と相談して、村重自身で援軍を要請しに行くこととなった。家中も皆賛成した。」
「村重は信長に出している人質を救出しようと考えていた。」
「村重は、茶壺を持たせた郎党2名と、侍女の多古々を連れて城を出た。」
「ところが、留守中に有岡城の中西新八郎が織田家の滝川一益にそそのかされ、寝返った。」
「このため、城内の荒木一族は老若男女を問わず討って出た。散り散りバラバラに成ってしまい気の毒なことだ」
「中西新八郎一族は後に池田輝政に使えたが、裏切り者の一族ということでクビになり野垂れ死にした」
「信長は有岡・尼崎両城の降伏勧告を受諾し、波々伯部某に管理させた」
「村重の一族30人を京都へ捕虜として連れ帰った」
「捕虜は、村重の弟吹田某、吹田の妹で野村丹後守の妻、村重の娘隼人の助の妻、その妹一人、村重の室など120人が
斬られたのは、大変気の毒なことだった。皆見物人は泣いた」
「花隈城の荒木志摩守親子と尼崎の村重親子は兵庫から5,60人で船出して安芸へ逃亡した」
「毛利家は荒木村重に給与を出した」
「織田信忠が後に荒木村重と連絡を取っていた」
「秀吉の時に村重は領地をもらい、茶人として召し抱えられた。
村重は道糞と号していたが、秀吉の名で道薫と改名させられた」
「村重の息子・新五郎は植田与助と名乗り、賤ヶ岳合戦で大手柄を上げたそうだ」
「新五郎の弟・弥四郎も仕官した」
「荒木村重(道薫)の推挙で、荒木志摩守親子・池田久左衛門親子、秋岡次郎介もみな仕官して領地をもらった」
この記述は信長公記と全く異なっている。学界ではこれまで信長公記の資料価値を高く評価して、陰徳太平記などは
俗書として頭から切り捨てていた。しかし太田牛一という人間はそこまで嘘をつかない人間だろうか。
信長を裏切ったということで、荒木一族の生存者までも斬られたとでっち上げたのではないかという疑念が
頭をさらない。他の史料や系図と突き合わせる限り、陰徳太平記が正しく、『信長公記』『立入宗継記』は
嘘を書いたのだが、なにしろ中央政権の史料なのでそのウソが大手を振ってまかり通った…というだけの話ではないか。
今でも、大手テレビ局の報道がウソでも信じられ、ネットメディアや雑誌の記事はバカにされているが、
それと同じことだと私は考えている。しかし、新出の古文書(コレは大河ドラマで黒田官兵衛が話題になったことで
発見されたもの)には、黒田官兵衛と荒木村重が有岡落城後も親しくしていたことが書かれているし、別の古文書には、
村重の毛利家への援軍要請が残っている。更に、村重の子・岩佐又兵衛は村重の妻の川那部だしの子で、乳母ともども逃亡したという。(『陰徳太平記』の多古々というのも、川那部たし[だし]のことかもしれない。この辺りは史料が甚だまちまちで論争が多いところでなんとも言えない)こういう諸資料を突き合わせるほどに信長公記のヘンテコな違和感は拭えないのである。
私はこう推測する。
太田牛一は信長公記をまとめるに当たり、村重一党処刑の現場を見ておらず、『立入宗継記』か何かを見て、
写したのだろう。今の大手メディアでもよくある記者クラブの記事丸写しというやつだ。
この部分が軍記物らしからぬ筆致なのは当然で、『立入宗継記』は公家侍である人の
著作だから、王朝物語調なのである。ところが、牛一はここで誤りを犯した。西国の史料を集めなかったのでは
なかろうか。そこで、存命の波々伯部を死んだと誤認した。「妹二人」が何度も出てくるのも変である。
実際には『陰徳太平記』が正しく、斬られた内、有名人は「吹田村氏夫妻と村重の家族の女性3名」というの
だったのが、この三名は実は身元が不明で、「村重の妻、村重の娘2名、妻の妹」の諸説があり、
牛一が書いた時には既によくわからなかったので、同一人物を複数と誤解して、更に水増しして
「裏切り者の末路はこうだ」式のプロバガンダを書きまくったのではないか?