fc2ブログ

平清盛のビデオリサーチ視聴率が悪かった。でも、視聴率が悪ければ悪い番組ではないよという話

掲題の件、報道の通り、非常にビデオリサーチの視聴率が悪かったということです。
そのため、大河ドラマ「平清盛」を褒める意見も殆ど無く、失敗だ失敗だと騒ぐ連中が多く、
大変がっかりしております。
まず、日経の記事を引きます。
「8日に放送が始まったNHK大河ドラマ「平清盛」の初回視聴率(総合テレビ)が関東地区で17.3%、関西地区で18.8%だったことが10日、ビデオリサーチの調査で分かった。

 昨年の「江~姫たちの戦国~」の初回視聴率は関東21.7%、関西20.9%だった。歴代大河ドラマの関東地区での初回視聴率としては、調査方法が現在とは異なるものも含まれるが、1989年の「春日局」14.3%や77年の「花神」16.5%に次ぎ、72年「新・平家物語」と並ぶ過去3番目の低視聴率となった。〔共同〕」
日経は単に事実を書いているだけですが、低俗な週刊誌やニュースサイトではこの数値を元に直ちに「平清盛」は失敗とかき立てている所があるのは非常に嘆かわしい限りです。
なんぼなんでも、あのドラマはそれほど批判されるものとは思えませんでした。忠盛のアクションもいいですし、子役の坊やも大変上手でした。ボクは取り敢えず次回も見ますよ。ボクは天邪鬼な所があり、家政婦のミタ、でしたか、ああいう高視聴率のドラマはなぜか嫌いで、見る気がしないのです。

ひとつ言いたいことがあります。

視聴率というのはひとつの統計指標(しかも、サンプル数の極めて少ない統計で、あまり正確な数値でもない!)に過ぎない。一つの統計指標をここまで血眼になって騒ぎまわり、視聴率が高ければ良い作品、悪ければ悪い作品と判断するのは、ちょっとおかしい。
広告業界や、マーケティング関係者の間では視聴率という指標はとっくに重要視されなくなっている。騒いでいるのは一部の芸能メディアだけだ。

少し上記の話は説明が必要でしょう。まず視聴率というのは関東全域1779万世帯の中から、わずか600世帯を対象として集計しているのです。統計というのはどんな小さいサンプルでも一応は取れるものですが、それにしても少ないです。

雑誌「財界展望」1月号で、各社のテレビCM担当者の座談会が出ていますが、一様に視聴率を信用していないようでした。私もwebプロモーションの傍ら、メディアミックスを提案することもあり、テレビやラジオのCMをお話することもあるのですが、お客様とお話する時に、視聴率だけでお話することはまずありません。番組や出演者のネット上でのインデックス数、月間検索数、雑誌紹介記事等を含めて総合的に判断して頂いているのです。最近のお客様も、視聴率だけでは納得される方は中々いないと思います。みなさん、広告のプロですし…

「NHK「平清盛」、初回視聴率が歴代ワースト3 「惨敗」は昨夏から決まっていた!」等という馬鹿げた報道をしているサイトがあります。視聴率信仰も程々にしたほうが良いと思います。
スポンサーサイト



テーマ:大河ドラマ - ジャンル:テレビ・ラジオ

ネット上で大騒動!大河ドラマ「平清盛」における「王家」という言葉の由来とは?

大河ドラマ「平清盛」で「王家」という表現がよく出てくるのですが、これについてネット上では大議論をやっている掲示板もあります。

論点をまとめてみますと、
肯定派…王家という表現は当時の史料に色々出てくるから問題はない。
天皇家とか、皇室とかいう表現は明治以降の言葉だから、逆に、当時の子供がしゃべっているのはおかしい。

否定派…王家という言葉は聞いたこともない言葉で歴史的におかしいのではないか。天皇家というべきだ。

ということのようです。これはどちらが正しいのでしょうか。結論から申し上げますと、まだ調べは十分行き届いていないものの、肯定派の方がやや主張に無理がないように思われます。

1,「王家」という表現は史料に色々登場しているというのは、事実である。南北朝時代の天皇陛下ご自筆の日記等に出てくる。

例えば、北畠親房『神皇正統記』では、
「これより清盛天下の権をほしきまゝにして、程なく太政大臣にあがり、其子大臣大将になり、あまさへ兄弟左右の大将にてならべりき。この御門の御世のことならぬもあり。ついでにしるしのす。天下の諸国は半(なかば)すぐるまで家領(けりやう)となし、官位は多く一門家僕(かぼく)にふさげたり。王家(わうか)の権さらになきがごとくになりぬ。此天皇天下を治給こと七年。二十三歳おましき。」
「頼朝勲功まことにためしなかりければ、みづからも権をほしきまゝにす。君も又うちまかせられにければ、王家の権はいよいよおとろへにき。」
というように、ちょうど源平合戦の頃の天皇家を表現して「王家」といっているのです。
(引用はhttp://www.j-texts.com/chusei/rek/jinno.htmlより)
なお、2ちゃんねるでは王家という表現が出てくる資料として、下記のようなコピペが出回っているようですが、このコピペはどうなのでしょうか。
どうも疑問です。
・「聖徳太子伝暦」(917年、藤原兼輔)
・「神皇正統紀」(1339年、北畠親房)
・「大宝令」(701年)
・「養老令」(757年)
・「玉葉」(1164~1200年、九条兼実)
・「吾妻鏡」(1300年頃)
・「平家物語」(1309年以前)
・「花園天皇宸記」(1310~32年)
まず「大宝令」(701年) は完全に残っていません。電子テキストもないようです。確認はできない状態です。「養老令」(757年) は完全に残っていますが、「王家」として出てくるのは
ちょっと見た限りではありませんでした。ひょっとしたら神祇官の王家(白川伯王家)と混同しているのかも知れませんが、これは「平清盛」で言うところの王家と全然違います。
(以下引用)
これがのちの白川家で「伯家〔はくけ〕」とも呼ばれます。また、特に姓〔せい〕がなく「○○王」と名乗っているのを「王氏〔おうし〕」と言いますが、伯に任じられた人は臣下でありながら姓を棄てて王氏を称する習いが生じ、このことから白川家は「王家」とも呼ばれます。(http://www.sol.dti.ne.jp/~hiromi/kansei/o_kan_jingi.html)

平家物語は元和九年の流布本で全文検索を掛けて見ましたが王家という言葉はヒットしません。
「花園天皇宸記」は巻3元弘元年十月の条に「王家之耻」という言葉が出ているので間違い無いと思われます。
確認できないのもありますが、取り敢えず現時点で裏が取れたのは南北朝期の『神皇正統記』『花園天皇宸記』の2つです。ただしこの2つは相当重い。軍記物のようなものではなく、朝廷の公式記録といっていいものだからです。
花園天皇宸記…95代天皇であらせられる花園天皇が、自筆で残された日記をまとめたもの。
神皇正統記…南朝の忠臣・北畠親房が後村上天皇に献上した書物。天皇家の万世一系を強調する狙いがある。

なお、鎌倉期に天皇家を何と言っていたのかは実は歴史学でも分かっていません。詳しくは下記のページを見てください。
http://ktbt-cinnamon.at.webry.info/201108/article_16.html

2,天皇家とか、皇室とかいう表現は明治以降の言葉だというのも正しそうである。詳しくは下記のブログ(産経新聞編集委員で時代劇の時代考証に詳しい大野敏明氏の「歴史ドラマのウソホント」を御覧ください。
(以下引用)
この会では千利休(石坂浩二)が「天皇」というが、当時は天皇とはいわない。「天子(てんし)様」とか「帝(みかど)」と言ったであろう。

 「天皇」と書いて「すめらみこと」と訓ずるが、これを音で「てんのう」と一般的に読むようになったのは、明治以降である。明治初年ですら、一般の武士は「天皇」といわれてもきょとんとしていて、「京の都の天子様」といわれて、ようやく理解できたといわれている。
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/natnews/topics/508679/

これ、実は昨年の大河ドラマ「江」の時代考証を批判する新聞のコラムなのですね。大野氏に批判されてNHKは今年改めたのではないでしょうか。

平清盛 第一回 簡単な感想

(あらすじ)インターネットTVガイドより 一部加筆して改めた。
 1118年の京都。平安の世は乱れ、武家の一門・平氏の嫡男である平忠盛(たいらのただもり、中井貴一)は、盗賊の捕縛などの仕事に就いていた。公家からバカにされ、汚れ仕事である盗賊追討をさせられる毎日に、忠盛は徒労を感じていた。そんなある日、忠盛は物乞いの姿をした舞子(吹石一恵)と出会う。舞子は白河院の御所に出入りする白拍子で、時の最高権力者・白河法皇(伊東四朗)の子を身ごもっていた。鳥羽天皇(三上博史)の中宮・待賢門院璋子(たいけんもんいんたまこ、檀れい)の体調が優れないことから、舞子の子は不吉な存在とされ、彼女は追っ手から逃げていたのだ。忠盛にかくまわれた舞子は、忠盛の家の納屋で赤ん坊を産む。平太と名付けられたその子こそ、後の清盛(松山ケンイチ、子役は前田旺志郎)だった。
 忠盛と舞子は愛しあい、短い幸せな時を過ごすが、その幸せは長く続かない。舞子を追っていた源氏の棟梁・源為義(小日向文世)が舞子を捕え、院庁に引き据えたのだ。舞子の姉分で、白河法皇の寵姫であった祇園女御(ぎおんのにょうご、松田聖子)、そして忠盛は代わる代わる助命を嘆願する。しかし白河法皇はそれを許さず、子供だけを許しただけだった。忠盛は大いに怒り、法皇を強く諌めた。しかし法皇は許さず、院の近臣は忠盛もろとも舞子を殺そうと一斉に弓を構えた。
 その時、舞子は立ち上がり、自分で死を選んだ。「この子にいい名をつけてあげて下さい」と言い残して…
成長した平太は父・忠盛の海賊討伐を見て育つ。一人で海賊船に飛び乗り、海賊をやっつけてしまう忠盛は平太のあこがれの人であった。忠盛の忠臣、平家貞(中村梅雀)や平家の武士たちも平太をかわいがった。祇園女御も平太を何くれとなく面倒を見、遊んであげていた。平太は父のマネをして剣術の稽古をし、女御と双六をする活発な子供に育った。女御いわく「この子は双六が強い子。舞子もそうだった」

やがて平太には新しい母と弟ができた。有る時、弟を泣かせてしまい、継母に平手打ちされた平太は出生に疑問を持つ。可愛がってくれる祇園女御の元へ駆け込み「私の父は誰ですか」と泣き叫んでいる所へ、白河法皇が来た。
「犬の子が入ってきよるわ!つまみだせ!」叩き出されてしまう平太。
 やがて泣き疲れ、京都の門の門前でどろんこになって寝ていた平太を、忠盛が見つけた。家出した平太を探していたのである。「お前は白河法皇の息子で、今は俺の犬だ、今は平家の弱い犬だ!死にたくなければ強くなれ!」忠盛は平太を叱咤激励する。(あらすじ終わり)

初回ということで顔見世興行的な話ではありましたが、なかなか面白かったのではないでしょうか。歴史的に見た場合にはどうなのか、この時代を専門とする歴史学者・元木泰雄先生の「平清盛の闘い」(角川文庫)によりますと。
・平清盛の母親は1120年に死去した「仙洞辺の女房」(白河法皇の周りの侍女)だと思われる。
・この女性はよく分からない人である。平家物語は祇園女御だとしており、近江胡宮文書では祇園女御の妹とするが荒唐無稽である。高橋昌明氏の研究では藤原為忠の娘ではないかとしている。
というわけですから、まあ今日の大河ドラマのお話は相当脚色されております。まあ時代劇ですから。
待賢門院璋子の侍女で、百人一首にも出てくる待賢門院堀河が出てましたね。

忠盛が公家からバカにされていたのは史実といっていいでしょう。海賊追討も史料にあることです。松田聖子さん演じる祇園女御は史実でも清盛の義理のお母さんでありましたから、平太坊やを可愛がるのは分からないではない。まあ歴史をドラマ化したらこんな感じかなあという所ですね。ちょっと偉そうだけど及第点かなあ。

(でも舞子を院庁で射殺するのは変ですね、本郷和人氏も述べておりましたが院庁を血で汚すというのはあり得ないことです、別の場所に連れて行って処刑するのが普通と思います)。

役者では、やはり忠盛を演じる中井貴一さんでしょう。あの人は上手い人ですね。海賊討伐の時のアクションもこなしておりました。いきなりワイヤーアクションを使って空手みたいな技で海賊を叩きのめすのは、カンフーアクションバリバリの華流時代劇にも出ている、この人らしい。時代劇デビュー当時は散々柔道の稽古をやらされたということですが、やっぱりいい役者さんです。
あと、松田聖子さんが以外といっちゃなんですが、綺麗だし、上手いんですね。他の女優さんは平安時代風の感じがまだ出ていないのですが、この方だけ平安の姫君を自然にできているなあ、という感じで…
子役の前田旺志郎くんも大変上手でした。アレは中々大変な役ですよ。中村梅雀さんが上手いのはいつもながら素晴らしいですね。

あまりうまくない方もおりまして、初回なのでベテランの役者さんでも中々難しいのだろうと思いました。源為義役の小日向文世さんは余りにも小物感を出そうとしていささか鼻に付いているきらいがあります。伊東四朗さんは意識しすぎと言うか重々しすぎてどうなんだろうと思いました。後、舞子役の吹石一恵さんは体当たりの熱演でありましたが、ちょっと性格が飲み込めなかった。

全体的に見て面白いですよ。

大河ドラマ「平清盛」ネット視聴率を計算する ネット視聴率速報値は31.6%

大河ドラマ「平清盛」が今日から放映された。中々良かった。
で、ビデオリサーチからの視聴率情報はまだ出ていない。
試みに簡単な多変量解析を行い、ネット上で検索している人と、2ちゃんねる掲示板で実況していた人の書き込み数を元として、簡単なネット視聴率(世帯視聴率)の速報値を計算してみた。

結果は31.6%。一般的な放送の2割台は越え、「家政婦のミタ」「紅白歌合戦」のようなお化け番組のような4割以上の数値より下ということで、大体妥当な数値ではないだろうか。野球中継やサッカー中継の大きい試合だとこのぐらいの視聴率は結構普通に出る。簡易的な統計に基づく演算に過ぎないからマーケティングには使えません。

一応、計算式が入ったエクセルファイルの画像を上げておきますので、ご興味が有る方は見てみてください。
エクセルファイルをあげられるところはどこかに無いですかね?
視聴率計算表


プロフィール

松平俊介

Author:松平俊介
松平俊介(まつだいら・しゅんすけ)
雑誌ライターやwebディレクターをしております。webデザインからwebマーケティング、ライターまで何でもやっております。これまでに色々なプロモーションを手がけて参りました。過去には週刊SPA!等に関わっておりましたが、現在は「連載JP」(東京産業新聞社)や、neverまとめ(NHNジャパン)を中心に執筆しております。
趣味は街歩きと歴史研究です。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR