元史がひどかったわけ
前の記事では思わず吉牛コピペをかましてしまいましたが、『元史』はとにかくひどいです。
で、注釈っつうほどでもないけど、ちょっと学術的なことを書いておきます。
・『元史』のひどいところ
小林先生の明徳版『元史』の解説にもまとめられていますが、結局誤りが多すぎるということに加えて文章が下手ということに尽きるようです。チンギスハーンの家臣の中でも猛者で知られたスブタイの列伝が
「巻八 速不台伝」
「巻九 雪不台伝」と、2つ連続して重複しているという、ありえない間違いがあります。
この手の間違いが五巻もあるのだから終わっています。
「巻一八 完者都伝」
「巻一九 完者抜都伝」
「巻一二三 忽刺出伝」※親戚の伝に付随
「巻一三三 忽刺出伝」
「巻一三二 阿塔赤伝」※親戚の伝に付随
「巻一三五 阿塔赤伝」
「巻一五〇 石抹也先伝」
「巻一五二 石抹阿辛伝」
と、いうのだからすごい。編者が如何にいい加減なヤツだったのか分かりますね。
清の考証学の大家・顧炎武もこの件について「編集責任者が宋濂・王禕・趙壎と三人もいたのに、
粗忽としか言いようがない」と呆れています。
これ、今のスポーツ雑誌で例えるなら、大リーガー列伝みたいな企画で
「イチローの打撃」
「イチロウの移籍」
「川崎宗則について」
「川崎宗矩とイチローの仲」
みたいな、誤字が記事タイトルに入った記事が連続で目次に出ているような状態です。
本気でこの三人は編集学校にでも入り直すべきだったと思います。しかもやらかしている五名が無名の人物ならともかく、スブタイと石抹也先は両方共、チンギスハーンの配下の中ではイチローや川崎レベルの大物武将ですから救えません。おまけに石抹也先の子孫の石抹宜孫は元の武将で、朱元璋と斬り合った人なんですね。朱元璋と一緒に戦っていた宋濂にとっては元ライバルなわけです。君たちはあれか、元ライバルのご先祖様のことも勘違いするのか。
モンゴル史の大家で、杉山正明氏も尊敬しておられる清の銭大キンになると、もうお手上げ状態という感じで
あきれ果てていますね。
「古今、元史ほど早く出来上がった史書は存在しないが、
文章が下手くそなことも元史の右に出るものはない。
編集責任者の宋濂・王禕は所詮は歌詠みで歴史学者ではない、
その他の書いている連中はズブの素人ばかりだ。バカで歴史を知らない連中ばかりだ。
具体的に言えば、
モンゴル帝国建国の四人の傑人を記しているのに、ナントその一人チラウンの列伝がない。
元の諸侯国は数家しかなかったのに、一国、列伝が抜けている。
元の宰相(首相)五九名中、列伝が立っているのは半分もない。
(中略)
本紀は一つのことを何度も書き、
列伝は重複している有様だ。
宰相の表に苗字だけの人もいれば、
諸王の表に王名だけで姓名不詳の人もある。
ここまで構成がひどい上、間違いだらけのデタラメなものでは、
文章が上手い下手以前の問題でお話にならない」『十駕齋養新錄』より、意訳
まあ、銭大キンはこのようにあきれ果てて、『元朝秘史』やモンゴル時代の石碑の碑文研究に打ち込んでいくわけですが(『元史訳文訂補』に、銭大キンが『元朝秘史』を宮中で発見したことからモンゴル史の研究が盛んになったと序文にあります)、いかに元史がひどいかは学界でも定評があるのです。
・なぜ、ひどくなったのか
まあぶっちゃけていえば、元史は「元は滅んで明になったよ!だから明が歴史書を書いたよ!」という
対外的なアピールのために出来ているわけで、わずか一年足らずという異常な速さでものすごく出来の悪い
歴史書を書いたわけです。そのころ実は元王朝は滅亡どころか、普通に国として存続していました。
元史が完成した1369年、明はわずかに元王朝の2つ目の首都・上都城を落とした程度で、
元の恵宗皇帝・トゴン・テムルは内蒙古の応昌府でがんばっていました。明は恵宗皇帝が翌年崩御すると、
勝手に「明に降伏した皇帝」ということで順帝という諡をでっちあげてしまうのですが、別に元は明に
降伏などせず、歴史上北元という王朝としてずっと存続します。
トゴン・テムル・ハーン(廟号は恵宗)が1370年に死去すると、明はトゴン・テムルに「天意に順じ明に帝位を譲った」という意味の順帝という諡号を贈り、トゴン・テムルに代わってハーンに即位したアユルシリダラ(昭宗)を「故元太子」と呼んで元の皇帝と認めなかった。しかし明の主張の一方で、元(北元)は依然としてモンゴル高原の遊牧勢力の君主として強大な軍事力を持っており、1372年には明がモンゴル高原に送った北伐軍を撃退した。
この時点で元(北元)の勢力は中国の北方から甘粛、雲南まで維持しており、江南と華北をようやく制覇したに過ぎない明を取り囲むようにして南北に対峙していた。
(ウィキペディア「北元」の項目より)
そんな状況ですから、元史は内容云々よりも外見の体裁さえ歴史書っぽければそれでよかったわけですね。
まあ、今の中国の「中華パッド」みたいな電化製品同様、
「外見のガワだけは日本や欧米のメーカー品をパクっていてなかなかのものだが、
中の機能たるやメチャメチャ」
という状況を、ズブの素人をかき集めた人海戦術で創りあげており、まあ、明王朝って今の中国の
プロトタイプなんだよなあー、と思わず納得しちゃうわけですよ。
で、注釈っつうほどでもないけど、ちょっと学術的なことを書いておきます。
・『元史』のひどいところ
小林先生の明徳版『元史』の解説にもまとめられていますが、結局誤りが多すぎるということに加えて文章が下手ということに尽きるようです。チンギスハーンの家臣の中でも猛者で知られたスブタイの列伝が
「巻八 速不台伝」
「巻九 雪不台伝」と、2つ連続して重複しているという、ありえない間違いがあります。
この手の間違いが五巻もあるのだから終わっています。
「巻一八 完者都伝」
「巻一九 完者抜都伝」
「巻一二三 忽刺出伝」※親戚の伝に付随
「巻一三三 忽刺出伝」
「巻一三二 阿塔赤伝」※親戚の伝に付随
「巻一三五 阿塔赤伝」
「巻一五〇 石抹也先伝」
「巻一五二 石抹阿辛伝」
と、いうのだからすごい。編者が如何にいい加減なヤツだったのか分かりますね。
清の考証学の大家・顧炎武もこの件について「編集責任者が宋濂・王禕・趙壎と三人もいたのに、
粗忽としか言いようがない」と呆れています。
これ、今のスポーツ雑誌で例えるなら、大リーガー列伝みたいな企画で
「イチローの打撃」
「イチロウの移籍」
「川崎宗則について」
「川崎宗矩とイチローの仲」
みたいな、誤字が記事タイトルに入った記事が連続で目次に出ているような状態です。
本気でこの三人は編集学校にでも入り直すべきだったと思います。しかもやらかしている五名が無名の人物ならともかく、スブタイと石抹也先は両方共、チンギスハーンの配下の中ではイチローや川崎レベルの大物武将ですから救えません。おまけに石抹也先の子孫の石抹宜孫は元の武将で、朱元璋と斬り合った人なんですね。朱元璋と一緒に戦っていた宋濂にとっては元ライバルなわけです。君たちはあれか、元ライバルのご先祖様のことも勘違いするのか。
モンゴル史の大家で、杉山正明氏も尊敬しておられる清の銭大キンになると、もうお手上げ状態という感じで
あきれ果てていますね。
「古今、元史ほど早く出来上がった史書は存在しないが、
文章が下手くそなことも元史の右に出るものはない。
編集責任者の宋濂・王禕は所詮は歌詠みで歴史学者ではない、
その他の書いている連中はズブの素人ばかりだ。バカで歴史を知らない連中ばかりだ。
具体的に言えば、
モンゴル帝国建国の四人の傑人を記しているのに、ナントその一人チラウンの列伝がない。
元の諸侯国は数家しかなかったのに、一国、列伝が抜けている。
元の宰相(首相)五九名中、列伝が立っているのは半分もない。
(中略)
本紀は一つのことを何度も書き、
列伝は重複している有様だ。
宰相の表に苗字だけの人もいれば、
諸王の表に王名だけで姓名不詳の人もある。
ここまで構成がひどい上、間違いだらけのデタラメなものでは、
文章が上手い下手以前の問題でお話にならない」『十駕齋養新錄』より、意訳
まあ、銭大キンはこのようにあきれ果てて、『元朝秘史』やモンゴル時代の石碑の碑文研究に打ち込んでいくわけですが(『元史訳文訂補』に、銭大キンが『元朝秘史』を宮中で発見したことからモンゴル史の研究が盛んになったと序文にあります)、いかに元史がひどいかは学界でも定評があるのです。
・なぜ、ひどくなったのか
まあぶっちゃけていえば、元史は「元は滅んで明になったよ!だから明が歴史書を書いたよ!」という
対外的なアピールのために出来ているわけで、わずか一年足らずという異常な速さでものすごく出来の悪い
歴史書を書いたわけです。そのころ実は元王朝は滅亡どころか、普通に国として存続していました。
元史が完成した1369年、明はわずかに元王朝の2つ目の首都・上都城を落とした程度で、
元の恵宗皇帝・トゴン・テムルは内蒙古の応昌府でがんばっていました。明は恵宗皇帝が翌年崩御すると、
勝手に「明に降伏した皇帝」ということで順帝という諡をでっちあげてしまうのですが、別に元は明に
降伏などせず、歴史上北元という王朝としてずっと存続します。
トゴン・テムル・ハーン(廟号は恵宗)が1370年に死去すると、明はトゴン・テムルに「天意に順じ明に帝位を譲った」という意味の順帝という諡号を贈り、トゴン・テムルに代わってハーンに即位したアユルシリダラ(昭宗)を「故元太子」と呼んで元の皇帝と認めなかった。しかし明の主張の一方で、元(北元)は依然としてモンゴル高原の遊牧勢力の君主として強大な軍事力を持っており、1372年には明がモンゴル高原に送った北伐軍を撃退した。
この時点で元(北元)の勢力は中国の北方から甘粛、雲南まで維持しており、江南と華北をようやく制覇したに過ぎない明を取り囲むようにして南北に対峙していた。
(ウィキペディア「北元」の項目より)
そんな状況ですから、元史は内容云々よりも外見の体裁さえ歴史書っぽければそれでよかったわけですね。
まあ、今の中国の「中華パッド」みたいな電化製品同様、
「外見のガワだけは日本や欧米のメーカー品をパクっていてなかなかのものだが、
中の機能たるやメチャメチャ」
という状況を、ズブの素人をかき集めた人海戦術で創りあげており、まあ、明王朝って今の中国の
プロトタイプなんだよなあー、と思わず納得しちゃうわけですよ。
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