ネットで話題の「◯◯の乱」「◯◯の変」「◯◯の役」の違いは間違い?

※本件でガジェット通信系ニュースサイト「連載JP」に記事を書きました。
内容はところどころ違います。こちらもよろしく
リツイート10,000近く!ネットで話題の「◯◯の乱」「◯◯の変」「◯◯の役」の違いに歴史学者が結論を出していた!

「トウギャッター」のみならず「ねとらぼ」でも取り上げられたので驚いているのだが、
日本史の事件の名付け方の法則が話題になっている。
「◯◯の乱」「◯◯の変」「◯◯の役」の違いに対するツッコミ
これ分かってたら勉強捗ってたなあ
「変」…成功したクーデター。成功して世の中が変わった、という勝者の視点から。
「乱」…失敗したクーデター。反乱が起きたものの鎮圧した、というこれも勝者の視点。
「役」…他国や辺境での戦争。他国からの侵略(元寇=弘安の役)でも使われる。

結構ツッコミが入っているのだが、この法則はマチガイですね。失敗した変や成功した乱が結構あるじゃん、ということです。なぜ間違ったのか?「変」と「乱」の定義付けがおかしいのです。成功・失敗は実は関係がない。

歴史学者が既に結論を出して、ネットで論文が公開されていた

実を言うとこの「◯◯の乱」「◯◯の変」「◯◯の役」の違い、既に歴史学で何度も問題になっておりまして、学習院大学長の故・安田元久先生が1983年(昭和58年)に『歴史事象の呼称について : 「承久の乱」「承久の変」を中心に』という論文を書かれています。安田先生、鎌倉時代研究の権威で、日本史の戦乱を全て書いた「戦乱の日本史」という本も書いて居られます。子供の頃、「戦乱の日本史」をよく読んでたなあ。分厚い本で、子供心にはワクワクした。

安田論文「歴史事象の呼称について」(学習院大PDFファイル)

安田先生は大前提で、「教科書では呼称の統一が意識されているが、統一をする場合の根拠は必ずしも明白ではないし、不用意にも、その学問的・思想的根拠に一貫性を欠いている面も見受けられる。」とし、割りと教科書でも命名法則はおざなりだよ、と指摘しています。

乱は「反乱」「内乱」だった!
そして安田先生は、乱と変の使い分けを以下の通り述べて居られます。

「乱とは「世の乱れ」「戦乱」「大規模な政治的抗争・内乱」などを言う。その日本史上における諸事象に対する適用例を示すと、
1)政治権力に対する武力による反抗、すなわち叛乱事件として、
 藤原広嗣の乱、薬子の乱、承平天慶の乱(松平注:平将門の乱、藤原純友の乱と同じ)、平忠常の乱、保元・平治の乱、和田氏の乱、三浦氏の乱、応永の乱、上杉禅秀の乱、大塩の乱、佐賀の乱
2)政治権力の収奪による内乱状態
 壬申の乱、承久の乱、元弘の乱、南北朝の(内)乱、永享の乱、応仁・文明の乱」

成功とか失敗とかは無関係に、大規模な戦乱・内乱の意味なんですね。この他に「三州錯乱」(松平元康の今川家からの独立)というのもあり、乱を起こした側が勝利して政権交代を果たしているケースが結構ある。

変は変事・異変である

つぎに変とは「凶変」「変事」「政治変革の陰謀事件」などを意味することが多く、またときには、一つの倫理・道徳的あるいは政治的立場からの批判的判断をふまえての「不当な事件=異変」を指した。その適用例を見ると、
3)政治権力者たる天皇・皇族、あるいは将軍などが獄逆・配流などに遭い、(一つの立場から見て)不当な立場に置かれた事件
 承久の変・正中の変・元弘の変・嘉吉の変
4)政治上の対立による陰謀事件
 長屋王の変・応天門の変・承和の変・安和の変・鹿ヶ谷の変」
今風に言うと、「事件」に近いかな?

乱は世の中が変わった事件、変はあまり変わらなかった事件

安田先生は更に、
「2)を乱と呼称することには何らの疑問もない。それらは、まさに戦乱なのである。また1)4)は、そ
の時点での政治権力者側から見ての叛乱であり、また変事であって、歴史事実としては結局その政治権力者によっ
て鎮圧されている。そしてこの乱または変に際して、それらの事件を発起することが「乱逆」であり、発起主体は「乱逆人」「謀叛人」とされた。1)4)はこの点で共通するが、1)の乱と4)の変という呼称の差異は何か。それは一つには事件の規模の大小にもよるが、1)の場合には支配的政治体制の変革にも及びかねない叛乱事件を含むのに対し、4)は何れも政治的支配層の内部におこった権力闘争であって、たとえ事件の発起主体が勝利を得ても、支配体制や支配権力の構造の上で大変革が期待されるといった性質をもっていなかった点に注意したい。

一般的に呼称する乱と変の差は、主としてこの点にあり、変という呼称は政治的・社会的変革を意味するものではなかった。」といっています。

要するに、今風に言えば政党内部の争いが我々の生活には何らの問題がないようなもので、コップの中の争いが「変」であり、政権交代で景気が良くなったとかそういう話が「乱」なんですね。

(こうしてみるとテレビ局が国政選挙番組で乱というワードを使いたがるのはよく分かるなあ。定義として正しいんですよ)

という話でした。なんでもソースをちゃんと当たるのは大事ですね。
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自分のツイッターの歴史ネタまとめ

○長谷川哲也『セキガハラ』ネタ

なんかキャラ設定が全てぶっ飛んでいる関ケ原合戦の漫画・長谷川哲也『セキガハラ』
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(漫画雑誌『コミック乱増刊・戦国武将列伝』で好評連載中)のネタ。家康がすごいことになっている。


久しぶりにイン殺さんのサイトを見たら「確かに柳生石舟斎を肩に乗せてて
無礼者の足を持ったまま地面に叩きつけて脳を飛び散らせる身の丈巨大な武士を見たら
普通「え、もしかして超変異した宗矩!?」って考えるのが自然ですよね。」
とあった。
まあそうですね。違いますけどね
※なんとこれが徳川家康。

まあ、徳川家康も黒田長政も柳生剣士ですからねえ。
実はとみ新蔵も原哲夫も超変異した柳生剣士・徳川二郎三郎家康くんを描いている。
なんかボブサップみたいなのが日本刀を振りかざしながらブンブン動いてんのね


まあ、家康ってそもそもボブ・サップ顔だしね…

○鎌倉太平寺炎上と里見義弘
1556年(弘治2年)、安房の戦国大名・里見義弘は東京湾をわたって対岸の鎌倉を攻めた。
この侵攻原因は今ひとつ明らかでないが、結果として小田原北条氏の新井城が炎上、鎌倉の
北条氏の寺・太平寺が炎上した。また、太平寺にいた尼さんの青岳尼と、本尊の観音菩薩像も
略奪された。青岳尼は元々房総半島にあった小弓足利家の姫君で、義弘とは恋仲だった可能性があり、
二人は直後に結婚している。


里見義弘が鎌倉の尼寺にいた元カノを奪還する目的で鎌倉を襲撃した所、
かねてから示し合わせていた元カノは義弘と駆け落ちした上、
本尊の観音様まで持って逃げた。小田原北条氏康は怒るまいことか、
「不思議な企てだ」「ビッチ死ねよ」「観音様返して」と猛抗議している

深作欣二の映画「里見八犬伝」では、最後に里見の姫と真田広之が
キャッキャウフフしながら馬に乗って駆けて行くが、
多分モデルはさっきの里見義弘の話じゃないのかな。
なにしろ鈴鹿ひろみ(違演ずる里見の姫は義弘の娘という設定で、
叔父様として太田三楽斎が出てくるのよ。あの映画

なお、義弘の元カノ・青岳尼については、
滝川恒昭氏は「没年が合わないので二人いた」説を主張している。
多分鈴鹿ひろみと小泉今日子がいたに違いない。じぇじぇじぇー

なお、里見の史料を元にした小川由秋『里見義堯』(PHP文庫)では、
里見義弘と元カノを純愛モノとして美しく描写しているが、
北条側史料を元にしたと思われる岩井三四二『不思議なるおくわだて』では、
青岳尼というクソ女のせいで皆がひどい目にあったことになっており、
180度視点が違う

【書評】歴史読本『徳川15代将軍職継承の謎』

歴史読本2013年1月号『徳川15代将軍職継承の謎』を図書館で借りてきて読んだ。
以下、目次を元に興味深い記事の抜き書きと感想。

『歴史読本』2013年1月号目次

◎グラビア
〈誌上試写室〉『大奥~永遠~【右衛門佐・綱吉篇】』
ちょうどこの頃やっていた大奥もの映画のグラビア。例の男女逆転のやつなので、綱吉は菅野美穂(!!)が演じている。美人だなー。特集記事と無理やり脳内でシンクロさせると、綱吉正室の鷹司信子が菅野美穂(!!)になるのだが、それでもいいのか。鷹司信子って、綱吉を膝枕中にぶっ刺して殺しちゃったという噂で有名な人やぞ。

◎特集ワイド 徳川15代将軍職継承の謎
初代家康から2代秀忠へ………小宮山敏和(国立公文書館)
数多い優秀な息子たちのなかで、なぜ3男秀忠が選ばれたのか?

最近、江戸初期研究で結構活発に論考を出しておられる小宮山敏和氏の論考。
『徳川実記』の、「関ヶ原の戦いの直後、家康が重臣たちに後継者を相談した」という逸話についての考察で、
「そもそもこの話自体が後世のネタじゃね?」と小宮山氏は結論づけている。『徳川実記』の逸話の元ネタが安積澹泊(水戸黄門の格さんのモデル)の書物だというからかなり後に出来た話なんだよなー。

個人的には、『徳川実記』のこの逸話にはすごく違和感があるので、小宮山氏に同感。なんで本多正信が結城秀康を後継者として推しているんだろうと昔から変な気がしていた。大久保忠隣が秀忠推しだった割に大久保家は改易されているし、変すぎだよね。

2代秀忠から3代家光へ………福田千鶴        
家光は江から生まれてはいない――兄弟骨肉の争いの謎


中公新書『江の生涯』で、徳川家光はお江の息子ではない!という新説を唱えて注目された福田氏の論考。内容は
『江の生涯』の要約って感じかな。まあ、秀忠が側室がゼロだったという通説があまりにも変すぎるので、まあ、詳しく見ていけばこうなるよなあ。

俺的には、福田センセが『週刊朝日』のインタビューで話していた「お江は吉永小百合に似ていると思う」という発言のほうが気になるが(そっちかい)。


7代家継から8代吉宗へ………白根孝胤
なぜ吉宗は、御三家同士による熾烈な後継争いを制することができたのか?


結論から言えば、尾張藩が馬鹿すぎた。徳川吉宗が根回しにより家継死亡直後に威風堂々と登城してきたのに対し、尾張藩は家老の不手際で遅刻した上、藩主と家老が直後にケンカ、家老が奇声を発して退出する始末だったらしいぞ。江戸庶民がものすごい勢いでプギャーして落首で飛び交ったという。


この時の尾張家に対する江戸庶民の反応は厳しく、附家老の成瀬正幸や竹腰正武に対して

「世の尾張 いかに成瀬と思いしに はやとりあえず きいの城入り」
「成瀬なく 竹の腰抜け 壱岐もなし 赤味噌つけて 隼人でんがく」
といった落首が飛び交い、二人の力不足で将軍の座を逃したことが批判の対象となった。


江戸しぐさの江戸開府説話が適当過ぎる件

越川禮子『商人道「江戸しぐさ」の知恵袋』では、徳川家康の江戸開府について、以下のように述べているが、
驚くなかれ、そのほとんどが歴史事実と異なる。伝承とはいえ、ここまでいい加減なものだと、果たして江戸しぐさの祖である芝三光という人の知識はどこまで本当なのか?

・徳川家康は名古屋から江戸に移った。
・家康が江戸に入ったのは関ヶ原の戦いに勝利した1600年。
・家康は江戸を100万都市にするべく、1600年から計画を始め、三年余を経た1603年に
幕府を開いた。
・家康は地方武士ではライフラインの整備は無理だと考え、大阪の住吉から1000人余りの商人を呼び寄せ、
彼らに江戸のまちづくりを任せた。彼らが江戸御用達商人の祖ではないか。
・江戸は発展し、荷物運搬用のエレベーターまであったので、明治期に外国に行った江戸っ子はエレベーターには全く驚かなかった。


更に、越川禮子・林田明大著『「江戸しぐさ」完全理解』では、更におどろくべきことが書かれている。

・幕府は(住吉から来た)江戸商人たちに、街向きのことには一切干渉しないと約束し、町人自治が守られた。
・江戸商人は町年寄三家を代表としており、その人々が培ったのが江戸しぐさである。
・江戸しぐさを知らない田舎者はスリに狙われた。


以下に、どのくらい「江戸しぐさ」側がとんでもないことを言っているのか、述べる。
・徳川家康は江戸以前は駿府に居城していた。名古屋はこの頃街すらなかった。

徳川家康公はこの師走に駿府の城にお移りになりました。浜松には元龜二年よりことしまで十六年間居られました。駿府の城は今川家滅亡の時に消失していたのを新たに築城され、五カ国(駿河・遠江・三河・甲斐・信濃。)の本城と定められ、御在城されたのです。(徳川実記・現代語訳)


・家康の江戸入りは1590年旧暦8月1日。(公称)一六〇〇年ではない。

又、旧領の五カ国は。秀吉に接収され、秀吉の配下に分け与えたので、徳川家は早く引き渡して江戸へ移れと命令がありました。よって、五カ国の諸有司・代官・下吏にいたるまでいそぎ招集して、関東八州の領地配分を家康公が命じられました。配分が終わったので、7月29日小田原城攻城の陣屋を出て、八月朔日(1日)江戶城に入られました。ここに徳川幕府繁栄の基礎を築かれたのです。(徳川実記・現代語訳)

なお、さすがに恥ずかしいと思ったのか、NPO法人「江戸しぐさ」のwebページでは、「徳川家康が秀吉の命で江戸に入ったのは1590年8月1日。」(http://www.edoshigusa.org/about/genealogy1/08/)となっている。

※実は、8月1日と言い切っちゃうのも微妙なんだよね。8月1日江戸入城というのは公称だったようで、それ以前から家康は江戸城にいたのだが、後にキリの良い8月1日を「江戸討ち入りの日」と定めたというのが真相らしい。


家康が江戸城及び市街地整備を行わせたのはほとんど武士もしくは武士出身の町人。例えば本多正信(江戸埋め立て)であり大久保主水(神田上水の責任者)である。彼らはそれこそ血のにじむような努力で江戸の街を作ったのである。

江戸中の普請も、毎朝午前四時から譜代の大名家が残らず提灯を立てて工事をしました。風雨・雪が降る中でも休まずに行いました。私達はお大名よりも早く出勤し、夜のうちから仕事をしていました。夕飯は宿舎で食べました。宿舎では火で温めてくれました。侍大将も与力・同心たちも同じようにクワを取り、モッコを担いだものです。
(鈴木理生『大江戸の正体』に引く、当時の旗本の記録・石川正西『正西聞見集』を現代語訳)


こういう先人の努力を無視するのは江戸っ子として情けなくないか?

・エレベーターが日本に出来たのは1890年11月10日。東京浅草の凌雲閣に設置。江戸末期に徳川斉昭が軽いものを釣り上げて運ぶ装置を作っており、それと混同しているのだろうか?少なくとも江戸の街にエレベーターがグングン動いていたとは考えづらい。
町年寄三家に大阪住吉商人など存在しない。奈良屋は奈良出身、樽屋は岡崎藩主水野家の一門、喜多村は金沢出身。というより大阪住吉に商人の集団なんかあったのだろうか?

前にも述べたように、町年寄の書き継いだ『武江年表』に江戸しぐさだの江戸っ子狩りだの書かれてないんだけどね

なお、NPO法人「江戸しぐさ」のwebページでは、突っ込まれたのか、「大阪住吉商人」の言葉が消え、「豊臣との天下分け目の戦に臨んだ家康を近江商人はいち早く支援、全国の情報を伝えた。家康はその労を多とし、全国を自由に往来できる手形を与えた。
「江戸しぐさ」の基盤をなす、中江藤樹の教えが全国に広がった要因のひとつだ。」(http://www.edoshigusa.org/about/genealogy1/08/)と、近江商人に置き換えてしまい、江戸しぐさを実在する中江藤樹の教えと結びつけようと苦心しているが、中江藤樹が生まれたのは1608年で、家康江戸入城の28年も後のことですね。

近江商人四家のうち一家は日本橋西川(現・西川産業)なんだけどなあ。西川産業のwebページの歴史の項目(かなり詳細)には、江戸しぐさのエの字もないですね。


今回引用した史料の原文。

君(注:徳川家康)はこの師走に駿府の城にうつらせ給ふ。濵松には元龜二年よりことしまで十六年が間おはしましぬ。駿府の城は今川亡し時燒うせけるを新に經營せられ。五ケ國 (駿遠三甲信。)の本府と定められ御在城ましましたるなり。(徳川実記)



又御舊領五ケ國は。秀吉賜はりて旗下の諸將に配分なさまほし。早く引渡し給はるべしとあり。よて五ケ國の諸有司代官下吏にいたるまでいそぎ召よせ。關東八州の地割を命ぜられ。事とゝのひしかば七月廿九日小田原を御發輿ありて。八月朔日江戶城にうつらせ給ひ。萬歲千秋天長地久の基を開かせ給ふ。(徳川実記)

羽生PAの鬼平テーマパークに「江戸しぐさ」だって?!

すでに報じられている通り、埼玉県にある東北自動車道の羽生PAが「鬼平犯科帳」テーマパーク化することになっており、本年12月に開業の予定だ。

羽生PAが商業施設「鬼平犯科帳 江戸処」に大変身/NEXCO東日本

ところが、そこでは「従業員に江戸しぐさをさせる」と言い出しているのだ。「行政書士 お~ちゃん」という方のブログに以下のようにある。

羽生PA江戸しぐさプロジェクト


埼玉県の羽生パーキングエリアで面白い取り組みがされています。

PA内のお店、建物を江戸の町さながらにし、おまけに従業員にも江戸しぐさ を徹底しようという企画です。
江戸しぐさと言えば、越川さん 。ということで、先日、越川さん宅でこのプロジェクトに携わる方と話し合いの場をもたせていただきました。

こちらのメンバーは、心学商売繁盛塾塾頭島村ノブリン と読書のすすめの清水店長 です。


文中の越川さんとはNPO法人江戸しぐさの越川禮子氏。「心学商売繁盛塾」というのは、島村信仁氏(株式会社経営ドクター代表取締役)が主催しているセミナーのこと。手書きPOPなどを指導しているらしい。読書のすすめの清水店長というのは、斉藤一人氏がやっているセミナー関係の人らしい。要するに、全部セミナー関係者のようだ。

 池波正太郎氏は江戸しぐさの一つ「時泥棒」について、「江戸の街では時間はいい加減で、カンを働かせていた」と、完全に食い違う見解を生前の対談で述べている(『塩魚江戸学』中央公論社)のだが、そういう人が作った世界観のテーマパークで、江戸しぐさをするのはどうなのか。

いいわけ

2020年の東京五輪も決まり、めでたい話である、うん、こちとらは休みもプログラミングの仕事で明け暮れ、
PCが壊れて、タブレットで書いている、ああやんぬるかな乞い願わくば受けよ、彼女にも逃げられ、高校野球の世界大会で地元の日大三高と常総高校の子が活躍せずに負け、泣きっ面に蜂、天地悠久といえどもこの恨み長く尽きることなからん、という感じである。どことなく山口瞳調。リア充爆発しろ!

とりあえずネタ(江戸仕草の関係者が情報商法と一緒に何か始めたとか、江戸時代の変な記録とか、リア充大名のキャッキャウフフのせいで国宝が爆発炎上したとか、神社仏閣とか)は溜めているのでPCが新しく調達でき次第大ネタをおろしますよー。

うん、そういうことです。

丹羽長重in劇的ビフォーアフター

アンサイクロペディアに書いてみたらボツになってしまったので、こっちに再掲載。

丹羽 長重(にわ ながしげ)は、戦国時代後期に活躍した戦国武将兼建築家。信長に抜擢され、米屋から栄達した丹羽長秀を親父に持つ。極めて劇的ビフォーアフターな人生を送った。豊臣秀吉や前田利長などにいいように翻弄され、一時は無一文の浪人にまで凋落してしまった不幸な人物…だったが、突然大改造!!劇的ビフォーアフターの匠(たくみ)として劇的な復活を遂げ、晩年は自分が作った城で幸福に包まれて没した。なお、後述の通り、三河吉良領と播州赤穂藩と宮内庁京都御所管理局にとっては「なんということをしてくれたのでしょう」と叫びたい人物である。人は彼を、「逆境を覆すサムライ建築家」と呼ぶ。



父、「世界を驚嘆させた米五郎左」こと丹羽長秀は、「冴えない琵琶湖の小城」目加田城を劇的ビフォーアフターして世界をアッと言わせた安土城を建築した有能な建築家でもあったが、織田信長が本能寺で横死した際、信長の三男織田信孝に随伴し、畿内にいた。つまり信長を弑逆した明智光秀から最も近い位置にいたことになる。そう、ひょっとしたら天下人になっていたかもしれない…のだが。
ところが、なんということでしょう!

丹羽長秀は信孝の従兄弟にあたる「一段のイチモツ」津田信澄に矛先を向け、本能寺の変の混乱に乗じて大阪城千貫櫓で劇的ビフォーアフターのついでに殺害するという奇行をやらかす。結局、信長の仇討ちでは秀吉に先を越され、天下取りに失敗した。

秀吉にあしらわれた上病に伏した長秀は絶望し、自分で自分を劇的ビフォーアフター。なんということでしょう!病床で自分の腸を抉り出し、握りつぶして自殺した。なお、匠の粋なはからいで床の間用のオブジェとしてがんの病巣は秀吉に送られたがなんということをしてくれたのでしょう!ということで秀吉は激怒、越前北庄藩は大減俸を喰らう。

大減俸を受けた丹羽長重だったが、その後も健気に大名業を続けていたものの、関が原の戦いの時に西軍について没落、その間、落ち武者狩りに襲われて山野を逃亡し、友人の徳川秀忠に51歳で招かれてわずか1万石の大名として復活する。



丹羽長重は、安土城の普請を担当した父、長秀譲りの築城の技量を持っていた。長年生かされることのなかった築城の技術がなんということでしょう!ようやくここで発揮されることとなる。時に長重51歳。その間、落ち武者狩りに襲われて山野を逃亡し、友人の秀忠に宿を世話してもらって号泣したこともあった。遅咲きの人生はようやく花開くのである。でもちょっと前半生が長いよね。ここまで読まれた方もさぞくたびれたと思う。なんということでしょう。

まず、物件1:「城主が左遷されてくる城」棚倉城劇的ビフォーアフター。 「逆境を覆すサムライ建築家」匠・長重はなんということでしょう、山上にあった城を破却し、古い伝統ある神社を移動させて外敵から城を守るのに都合の良い平城に改造してしまった。なお、神社は匠の粋な計らいにより修築している。この功績により、物件2:「いつ廃城になったかわからない城」白河小峰城へ加増転封された。
匠・長重はなんということでしょう、奥州の土塁づくりの城を破却し、安土城バリの総石垣造りの堅城に劇的大改造。城下町まで劇的大改造して現在の白河市の繁栄の基礎を築いた。匠の粋なはからいとしては、自分で作った自分の墓、丹羽長重公霊廟(重要文化財)が現存している。
おまけに人柱と称して美少女・おとめタンを囲い、「なんということをしてくれたのでしょう」、美少女と「おとめタンを埋めた跡だ」と領民を騙して植えた桜に囲まれる幸福な人生の晩年を迎えた。おとめタンが長重に劇的ビフォーアフターされた挙句に生んだのが、例の忠臣蔵の浅野内匠頭の祖父・浅野長直である。長直も同様に築城に長け、京都御所を江戸風に劇的ビフォーアフターしている。お陰で三河吉良領と赤穂藩がお家断絶劇的ビフォーアフターされてしまった。

「死後に至ってもなんということをしてくれたのでしょう!」

匠・丹羽長重(とその一族)の劇的ビフォーアフターの軌跡



物件1:「城主が左遷されてくる城」棚倉城
1590年に急造された山城は50度の急傾斜で手すりもないため、おばあちゃんは到底登れない状態だった。
匠・長重の大胆な発想から、なんと山上の城を破却。ふもとの神社を移動させてそこに太平の世にふさわしい
平城を作り、左遷された武士にもやさしい癒やしの城郭を作り上げた。

物件2:「いつ廃城になったかわからない城」白河小峰城
南北朝時代の古城は奥州の要として全く機能しておらず、新規に上方風の総石垣造りの城を築城。三層天守や桜など、観光名所としても機能するようにした。「日本100名城」受賞。

物件3:「地震雷火事に襲われた城」二本松城
匠・長重の大胆な発想から、なんと山上の城を破却。城郭機能をふもとの箕輪門に集中させ、街道の付け替えなどで防御性も確保。「日本100名城」受賞。

物件4:「城主が発狂する城」播州赤穂城…娘婿の浅野長直名義。匠の粋な計らいで孫がアレしてしまい殿中刃傷に及ぶ。

物件5:「塀が壊れて子供が入り込んでくる屋敷」京都御所…娘婿の浅野長直名義。なんということをしてくれたのでしょう、本来の平安風から匠の粋な計らいで江戸風にされてしまい、松平定信に再度劇的ビフォーアフターされるまで平安風の本来の意匠が失われていた。

この頃の日本には欠陥建築・老朽化した建築が多く、匠の手により劇的ビフォーアフターされた建築は数多い。匠の粋な計らいでとてつもないことになった建築も多い…というか、寺社建築で江戸期の改造が加わると、たいていは匠の粋な計らいでヘンな意匠にされてしまって、「なんということをしてくれたのでしょう!」というのが多いんだよな。法起寺三重塔とか。匠の粋な計らいで寺院なのに城郭建築にされて、「なんということをしてくれたのでしょう!」と梅原猛をして嘆かさしめた知恩院とか、マジでヒデエよ。
プロフィール

松平俊介

Author:松平俊介
松平俊介(まつだいら・しゅんすけ)
雑誌ライターやwebディレクターをしております。webデザインからwebマーケティング、ライターまで何でもやっております。これまでに色々なプロモーションを手がけて参りました。過去には週刊SPA!等に関わっておりましたが、現在は「連載JP」(東京産業新聞社)や、neverまとめ(NHNジャパン)を中心に執筆しております。
趣味は街歩きと歴史研究です。

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