集英社版『人物中国の歴史』について

このシリーズ、地味な中国史の評伝列伝なのだが意外と役に立つので紹介したいと思う。
後に集英社文庫にもなったのだが、ネット上にはほとんど情報がないので。

集英社版『人物中国の歴史』
編集委員:尾崎秀樹・駒田信二・司馬遼太郎・陳舜臣・常石茂
(二人以上が一つの章で扱われているいわゆる合伝[ごうでん]は中点を付けず、
斉の桓公などの「の」は全て略した)

1、大黄河の夜明け 周公旦・褒姒・斉桓公・晋文公・楚荘王・孔子・伍子胥
2、諸子百家の時代 墨子・予譲ジョウセイ・呉子孫子・商鞅・蘇秦張儀・孟子・荘子
3、戦国時代の群像 楽毅田単・屈原・戦国四君子・呂不韋・荀子韓非子・荊軻コウゼンリ
4、長城とシルクロードと 始皇帝李斯・陳勝呉広・項羽劉邦・呂后・司馬遷など
5、三国志の世界 光武帝・班固など・曹操・諸葛亮姜維・曹丕曹植・阮籍ケイコウ
6、長安の春秋 陶淵明・隋煬帝・唐太宗・玄奘三蔵・則天武后・玄宗楊貴妃・李杜
7、中国のルネサンス 朱全忠・宋太祖・王安石司馬光・欧陽修蘇軾・朱子陸象山・ジンギス汗(元太祖)
8、落日の大帝国 フビライ汗(元世祖)マルコポーロ・洪武帝(朱元璋)・鄭和・王陽明・万暦帝・元末四大家
9、激動の近代中国 ヌルハチ(清太祖)・李自成呉三桂・鄭成功・康煕帝雍正帝・林則徐・洪秀全・西太后
10、人民中国の誕生 孫文・袁世凱・蔡元培・魯迅・蒋介石・梅蘭芳斉白石・朱徳・毛沢東・周恩来
別巻 故事と名言でつづる中国史

見て分かる通り、「なんか聞いたことないなあ」という人が入っている一方「なんでこの人が入ってないんだ」
というのもあり、著者により質がものすごく良かったりものすごく悪かったりして玉石混交である。
私はだいたい読んだが、とりあえず中でよかったのを上げてみたい。

・周公旦(白川静) 文句なしの超ビッグネームである。白川著作集にも同じものが入っている。
・朱子陸象山(野口武彦) わかりにくい朱陸の争いを対談形式にしており大変わかり易い。
・洪武帝(寺田隆信) さすがに大家の作だけ有り大変わかり易い。
・王陽明(宇野茂彦) 冒頭がカッコイイ。

まあ、「曹操」の項で全部三国志演義を丸写しにした某作家もいたのだが…そういうハズレ系の章もある。
だいたい学者が書いた章は出来がいいが小説家が書いていると、あっ(察し みたいのが多いことは否めない。
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倉山満『嘘だらけの日中近現代史』の誤りについて(5)中国通史の認識誤認

倉山満『嘘だらけの日中近現代史』の誤りについて更に書こうと思う。

(元ツイッター)倉山満『嘘だらけの日中近現代史』の誤りについて



p44-p54には「中国各王朝の実態」と称して、王朝ごとの簡単な年代と解説が出ているが、その解説が「誤解」「中国共産党史観の丸写し」(日本の中国学界で否定)「誤記」が非常に多い。ブログにまとめるに当たり再度読みなおしたが読みなおすたびに誤りが出てくるのである。

まず、「中国各王朝の実態」でなぜ中国共産党の政策「夏殷周断代工程」で決められた年代をそのまま持ってきてしまうんだろうか。

 日本の学界では夏王朝実在性について疑問視しており、「夏殷周断代工程」はトウ小平の娘を親玉とする中国政府お声がかりのやつなんだけどね。それを何故、「嘘つきチャイニーズによるプロバガンダの手口をバラす!」という趣旨の本に書くのであろうか。

 ハッキリ畏友・永一氏が「夏商周三代の紀年について」(http://ww1.enjoy.ne.jp/~nagaichi/column03.html)で断じている通り「夏王朝については、中国では既にその実在を前提に議論が進められているが、欧米や日本では懐疑的な論調がまだ支配的である。」というのが日本の学界の通説である。

 例えば吉川弘文館の年表では夏王朝を認めていない。
 なぜ倉山氏は日本史学の通説を否定して、あたかも中国共産党におもねるように夏王朝を実在として年代もそのまま写したのだろうか?

p45「(殷の)紂王は酒池肉林の語源になるような淫蕩と悪政を繰り広げたので」…それは後世の諸子百家の宣伝だというのが通説である。実は「酒池肉林」を行ったのは夏の桀王だという史書も複数存在しており、(冨谷至『四字熟語の中国史』岩波新書)「嘘つきチャイニーズによるプロバガンダの手口をバラす!」という趣旨の本であればそのこともちゃんと書くべきであった。

p47「漢は武帝の外征で(匈奴の)属国の地位から脱します」…

この本にかぎらずネトウヨ嫌中嫌韓本の「属国」の定義はメチャクチャ。漢ー匈奴は「約して兄弟」なのだから対等国扱いである。国際法学では「属国」は「事実上、政治的、経済的に従属関係にある国。」なのだが、匈奴って漢からカネと宮女をもらっていただけなんじゃないんですかね。漢の皇帝が匈奴に認められないと即位できないとか聞いたことがないぞ。日本もODAを中国に出していたんだが、日本は中国の属国なのだろうか?

p47「『倭人』こと、日本人が文献史料に登場するのはこのころで、「百余国に分かれた国の一つの王が朝鮮半島の楽浪郡に朝貢に来た」とありますが、だからどうだというのでしょうか。」

漢書地理志の有名な記述「樂浪海中有倭人,分為百餘國,以歲時來獻見云。」(楽浪の海中に倭人あり、分かれて百余国となる。歲時をもって来たり、獻見すと云う)を誤解している。別に百余国のうちの一国が来たというわけでもないと思うのだが。「王が来た」とも書いていない。これは諸説あるところだが、例えば古田武彦氏は「倭の人は、百余国が時々定期的に朝貢してきて礼儀を尽くしている」と解釈している。他の論者もだいたい同じようである。「百余国に分かれた国の一つの王」という倉山氏の説は、かなり無理のある解釈ではなかろうか?

また、古田氏は前段の「「殷道衰,箕子去之朝鮮,教其民以禮義,田蠶織作。(中略)可貴哉,仁賢之化也!然東夷天性柔順,異於三方之外,故孔子悼道不行,設浮於海,欲居九夷,有以也夫!」
(大意:殷の箕子が朝鮮半島に来て民衆に農業や礼儀を教えたので、東夷の人々は他の蛮族と違い文明化されている。ああ、聖人が文明を伝えたというのは偉大なことだ!だから孔子も『私の道は中国人にはよくわからないようだ、海を渡り東夷へ行きたいものだなあ』と嘆いたというのもよく分かる)と合わせて解釈している。これは伊藤仁斎『論語古義』などにも似た説が出ており、「孔子は日本に憧れていた」という有名な説の元ネタであるが、どうして倉山氏はそこを略すのであろうか?

p48「倭などと『チビ』『猫背』の意味で読んでくれていたのが中国人です」…それは藤堂明保説(『学研漢和大字典』)であって古来の解釈ではない。なぜ右派の倉山氏が左派系の藤堂明保説を突然持ってくるのか良くわからない。
 単に中国人を貶めるための目的で左派の説まで動員したのであれば、思想的に純粋ではないし、おまけに藤堂説が学界で通説になっているわけでもないのである。
 漢字の解釈で古来最も権威があるとされている『説文解字』では全然別の説を述べているのだ。
(説文解字)
「順貌。(段注)倭與委義略同。委、隨也。隨、從也。」
从人。委聲。詩曰。周道倭遟。(段注)小雅四牡文。傳曰。倭遟、歷遠之貌。按倭遟合二字成語。韓詩作威夷。故與順訓不同。而亦無不合也。」
(意訳:倭とは順うさまである。委と同じ意味である。随う、従うと同じだ。※人に属する。詩経・小雅・四牡には「周道倭遅(いち)たり」とある。詩経の毛亨の注釈[毛伝]によれば「倭遅」とは遠くめぐり連なるという意味だ)
なお、白川静博士の『字通』でもこの説文解字及び段注の説をほぼそのまま用いている。
※竹内実『新版中国の思想』(NHK出版)では、「道義に従う」と解釈している。これは室町時代の学者・一条兼良の、説文解字を敷衍した『日本書紀纂疏』の説に従ったのであろう。

 なお、学習院大講師の王瑞来氏の論考『「倭」の本義考――あわせてその意味変遷を論ずる――』(http://salon.gooside.com/wakao.htm)によると、倭を蔑称だとするのは『新しい歴史教科書』にも出てくる説だが、漢字「倭」にはもともと悪い意味はなかったという。
 王氏によれば、五胡十六国時代には「燕の魯陽王(慕容)倭奴」という王族までいたという。わが聖武天皇の宣命に「大倭国」というのだから、「(倭を悪字とするのは)おそらく文字学の知識が乏しいための誤解か,あるいは故意に本義を無視して曲解したものであるとしか思われない。」と断ずる王氏の説はなかなか説得力がある。

p49「晋は建国当初から内紛が絶えず(安定した年が、一年としてない)」…いいすぎ。武帝期は安定して人口も増えている。

南北朝時代を「これまでとは比較にならないほど安定した統治」(p50)と言い出すのも訳がわからない。…いなかったことにされた宇宙大将軍キングカワイソス…あと東魏も西魏も政治的には混乱していた。

p51「倭王武が長々と演説」…上表文と演説を混同。

p52「この王朝(唐)の前半150年くらいは文化大国なのですが、それ以降は三国時代と変わらない戦乱と殺戮で衰亡していきます」…安史の乱以降復興してますけどね。

p52「あきれた日本はもはや学ぶものはないと菅原道真が遣唐使を廃止し」…遣唐使廃止は894年で唐滅亡寸前です。

倉山満『嘘だらけの日中近現代史』の誤りについて(4)三国志誤読箇所

倉山満『嘘だらけの日中近現代史』の誤りについて、連載第4回目となる。今回はp34-43の、「第一章第三節 『インテリヤクザ』諸葛孔明の真実」の部分である。これはブログコメントで三国志の誤りはないのかとリクエストされたからである。誤りと思しき箇所はいっぱいある。正史三国志、資治通鑑、三国志演義毛本、立間祥介訳、吉川英治版を参照しましたがどれとも全く似ていない謎のエピソードが幾つも出てきている。

以下、倉山満『嘘だらけの日中近現代史』を「倉山本」と略す。今回は余りにも多いので、目次をつけることにする。
1,「曹操の本拠は北京?」
2,「『三代奇書』?」
3,「陳寿の賄賂要求?」
4,「諸葛亮はコネ頼み?」
5,「張飛が泣く?」
6,「奇門遁甲は星占い?」
7,「諸葛孔明ビルマ(ミャンマー)侵略?」



1,「曹操の本拠は北京?」
倉山本P35「(劉備たちは)北京あたりで勢力を持った軍閥・曹操の誘いも断り茨の道を進む」


 曹操の根拠地は移動しているが、最終的な魏王国の首都は魏郡鄴[ギョウ]都(現・河北省邯鄲[かんたん]市)である。
北京(後漢の幽州薊県)を本拠としたことはない。銅雀台も鄴にあったし、魏という国号の由来がそもそも魏郡鄴を領地としていた為に魏公に封ぜられた時に始まるのだからお話にならない。信長の根拠地は安土城(現・近江八幡市安土町)だったが、それを「新潟周辺」というようなもので、支離滅裂である。
 なお、魏(鄴)である現在の河北省邯鄲市と、北京とは400キロ位地図で見ると離れているようだ。安土から北へ400キロ行くと日本海のどまんなかに行くんですよねえ…陸地沿いでも新潟だよ…
 
 この頃の北京は余り大きな都市でもなかったようで、三国志には公孫瓚(コウソンサン)が劉虞を斬った話で多少登場する程度である。曹操は、207年の烏桓討伐の時にちょっと通ったかな?という程度である。
本拠どころの騒ぎではない。

 このあたりのことは三国志演義でもちゃんと書いてある。「北京あたりで勢力を持った軍閥・曹操」は倉山氏によれば「通説」だそうです。そんな通説聞いたことない。
 なお、正史三国志の「北京」の検索結果「0」であった。地名すらなかったのである。
2,「『三代奇書』?」
「(三国志)演義は、孫悟空が活躍する『西遊記』や、ヤクザの群れが梁山泊に集結する『水滸伝』とともに、
「三代奇書」と呼ばれます」(倉山本p37)


倉山氏は三「代」奇書とは書かないで欲しかったなあ。四大奇書が正しい。これはちゃんと故事成語なのだから正しく書くべきである。「馮夢竜亦有四大奇書之目,曰三国也,水滸也,西遊与金瓶梅也。」(明の陽明学者・小説家の馮夢竜が四大奇書を定めた。それは三国志演義・水滸伝・西遊記・金瓶梅である)と清の文人・李漁(りぎょ)が述べていて、それに由来する。編集者も辞書ぐらい引かなかったのだろうか?校正をしたのだろうか?
3,「陳寿の賄賂要求?」
「著者の陳寿はある人物を高く評価しようとして登場人物の子孫に高額の原稿料を要求したという話が残っています」(倉山本P37)


 これは有名な晋書・陳寿伝のガセネタである。

「據《晉書》記載,當時傳聞陳壽曾向丁儀、丁廙的兒子索取立傳費,說:「可覓千斛米見與,當為尊公作佳傳。」結果被拒絕後,陳壽竟然就不為享有高名的丁氏二人立傳。據《三國志·魏書·任城陳蕭王傳》記載,陳壽出生前13年(220年)丁氏兄弟和全家男性就被曹丕殺,根本無後代。如採信此說法,則晉書的記載爲謠言。」
(晋書には、陳寿が丁儀、丁廙の息子に高額の原稿料を要求した話が出てくるが、この丁儀、丁廙の息子は陳寿が生まれる13年前の西暦220年に殺害されているのだから、そもそもそんな人物が居たはずがない。晋書がデマを載せただけだ)
という中国語版ウィキペディア(この記述そのものは清朝考証学者の説に基づく、詳しくは本田済『漢書・後漢書・三国志列伝選』平凡社の解説を参照)の解説で十分であろう。
4,「諸葛亮はコネ頼み?」
「(孔明は)まず、呉で重臣となっている兄の諸葛瑾のコネを頼り、(呉の)朝廷に乗り込みます」(p39)


孔明は諸葛瑾のコネなんか頼ってないです。これは演義も歴史書も吉川版も全く同じですが、呉の魯粛が偵察がてら劉備に会いに来る→孫権・劉備同盟というのが流れである。この辺りは演義の記述は史書をちゃんと踏襲している。

例えば吉川英治はこう書いている。なお、三国志演義でもこの辺りの描写はほとんど同じ(細部は違うが)。
 「魯粛は慎重に、孫権の諮問にこたえた。
「劉表の喪を弔うという名目をもって、私が荊州へお使いに立ちましょう」
「……そして?」
「帰途ひそかに江夏へおもむき、玄徳と対面して、よく利害を説き、彼に援助を与える密約をむすんで来ます」
(中略)
孔明は、「ごらんなさい。今にきっと呉から使者が来るにちがいありません。」(中略)
(周囲は怪しんだが、魯粛は)ほんとうに江夏を訪れて来た。
「呉主孫権の名代として、故劉表の喪を弔うと称し、重臣魯粛と申される方の船が、いま江頭に着きました」
(中略)
(劉備と魯粛が話し合っている席に諸葛亮が呼ばれ)
「亮先生。――自分は先生の実兄とは、年来の親友ですが」と魯粛は、個人的な親しさを示しながら、彼に話しかけた。
「……ほ。兄の瑾をよくご存じですか」と、孔明もなつかしげに瞳を細めた。
(吉川英治『三国志』赤壁の巻より http://www.aozora.gr.jp/cards/001562/files/52415_51066.html)


ぶっちゃけ、魯粛は今で言えば業務提携を結びに同業の会社に来た営業マンみたいなもので、その時に諸葛孔明にも会ったので「いやーどうも、諸葛瑾アニキの弟さんですねお元気ですか」とやっただけなんですけどね。孔明自発的にコネなんも使ってないんですけど。

それどころか三国志演義四十四回「孔明用智激周瑜 孫權決計破曹操」では、諸葛瑾は孔明に「俺たち兄弟別れ別れってのは良くないよな?劉備を裏切ってうちに来ない?」と誘って「やだなーアニキこそ、劉皇叔様の家臣になればいいじゃないですかやだー」と返されているわけで全然コネ使わないですね。
5,「張飛が泣く?」
「(曹操を逃した関羽を)戦後の軍議では孔明が軍規を破った関羽の処刑を主張し、張飛が泣いて許しを請い」(p39)

 張飛なんか出てこないんですけどね、その場に。
6,「奇門遁甲は星占い?」
「曹操の寿命が尽きていないことを星占い(奇門遁甲)により知っていた孔明は(中略)天才・孔明は最初からすべて読んでいた、という筋書き」(p39) 


この話はどこにあるのかよくわからず、これも誤りかと思ったが、むじんさんにお教えいただいた。三国志演義第49回にあることはある。ただ引用が変である。

「玄德曰、『吾弟義氣深重、若曹操果然投華容道去時、只恐端的放了。』孔明曰、『亮夜觀乾象、操賊未合身亡。留這人情、敎雲長做了、亦是美事。』玄德曰、『先生神算、世所罕及!』」
(玄徳がいうのに、「弟は義を重んじること深い、曹操が華容道に来ても逃すのではないかと思うがな…」孔明答えて「拙者、夜に「乾象」(天文現象)を見ますと、曹操めの命は尽きておりませぬ。雲長殿に義理を果たさせる良い機会と思います」玄徳「先生の神算鬼謀はまったく感服いたします)[立間祥介訳を元にやや改めた)

星占い(奇門遁甲)というのはなくもがなの注であり、星占い(天文占、天文道)と奇門遁甲とは違うものである。天文占の例を上げよう。
晋書天文志下「明帝太和五年五月,熒惑犯房。占曰:「房四星,股肱臣將相位也,(中略)將相有憂。」其七月,車騎將軍張郃追諸葛亮,為亮所害。十二月,太尉華歆薨。」
(訳:魏の明帝曹叡の太和五年五月、熒惑(けいわく、火星のこと)が星座・房宿(さそり座)に現れた。占いによれば、「房の四星は、股肱の臣、将軍・宰相の位である、(中略)有力な将軍・宰相に良くないことがあるだろう。」ということだった。その七月,車騎将軍[元帥陸軍大将]の張郃が蜀の諸葛亮に追撃され,諸葛軍に討たれてしまった。十二月、太尉[総理大臣]の華歆が薨じてしまった。)
すなわち、火星が将軍・宰相の位である房宿(さそり座)に現れたので魏の文武の要というべき張郃(ちょうこう)・華歆(かきん)、元帥と総理が死んでしまった予兆だというのである。星占いというと恋占いのようななんとなく女子っぽい語感があるので「天文占」と書いていただきたいところだ。

 では奇門遁甲はどうかというとこれは方角占いであって、前出の天文占とは全然別である。北海道大学の猪野毅先生が「奇門遁甲は方位学(空間の学、洛書学)であり、干支学(時間の学、暦学)でもある(http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/handle/2115/44606)」といっているのがわかりやすい。『後漢書』方術伝などに出てくるのが初出という。

7,「諸葛孔明ビルマ(ミャンマー)侵略?」
「孔明は今の雲南省やビルマ、ベトナムあたりから人を大量拉致していたということです」(p41)
 
これについて、「…ファッ?!もう何がいいたいんでしょうか。演義でも孔明はビルマ遠征なんかしてないです、もうなんなんだか」とツイッターでコメントした所、清水代歩さん( @kaho_biz)から情報を頂いた。

「「孔明ビルマ遠征」←横山光輝の漫画で木鹿王の八納洞を「ビルマ・インドのあたり」としてました。http://ncode.syosetu.com/n8686m/64/によると中国の学者でそのように主張している人もいるようですが、それをそのまま信じるのかと。しかしベトナムというのは???」


早速調べてみた。この諸葛孔明ビルマ遠征説というのは確かにある。しかし、その根拠は甚だ貧弱なものである。保守系論客(だと思う)の倉山氏が中国の学者の主張を鵜呑みにするようなことはするまいと思うのだが…なお、ベトナムに至っては根拠すら不明である。

この、諸葛孔明ビルマ遠征説は中国の百科事典「百度百科」にも「深入不毛」として立項されている。

成都学者李定与早在上世纪80年代就研究过《出师表》中的“不毛”一词,并有多篇论文发表。在80高龄时,他又根据《大理古佚书钞》中三位明代学者关于诸葛亮南征的研究,沿着诸葛南征的路线,从成都出发,行程75天,最后到达缅甸,发现了许多前人未曾注意到的新论据。后来李先生写出了《<出师表>中“泸”与“不毛”的地理位置》和《诸葛亮南征地理位置考释》等文,发表于《云南时报》、云南《保山日报》和云南《高黎贡》杂志。
以“不毛”称缅甸的,还有唐初四杰的骆宾王。他的《从军中行路难》诗云:“去去指哀牢,行行入不毛”诗中“不毛”,值得也是缅甸。(http://baike.baidu.com/view/1856674.htm)


おおまかに訳すと、「成都の学者、李定という人が既に1980年代から「出師の表」の“不毛”という言葉について論文をたくさん書いた。彼の根拠は『大理古佚書鈔』の中で、三人の明代の学者が主張する「諸葛亮は成都を出発して75日掛かったので、ビルマ(ミャンマー)に到達したに違いない」という説だ。ところが、それ以上の根拠がなかったのであまり注目を引かない説であった。李さんは現地紙の「雲南時報」等に発表した論文で、「唐の駱賓王の詩に「行行入不毛」とある、不毛即ちビルマ(ミャンマー)のことだ」とした。」というのだ。要するに似た音の地名を無理やりこじつけた話である。

中国でもこの説は余り評価されていないのである。李殿元・李紹先著『三国志考証学』(和田武司・訳、講談社)という優れた三国志演義の考証本があるが、この本では「不毛は正確なことを言っているわけではなく、漠然と『深く荒野の地に入った』『深く草木の生えぬ地区に入った』という意味が通説」とし、「不毛というのは元々地名ではない、ミャンマー[ビルマ]、バモーなどの音が近いところを指すことはありえない」と断じている。

ここまでひどい三国志の記述も、なかなかないと思われる。

倉山満『嘘だらけの日中近現代史』の誤りについて(3)

前の投稿に引き続き、倉山満『嘘だらけの日中近現代史』の誤りについて記述したいと思う。
なお、この連載のサブとして、トウギャッターに私のツイートしたものをまとめたものもあるので、
以下にリンクをしておく。

倉山満『嘘だらけの日中近現代史』の誤りについて

 今日現在で既に16055件のアクセスが有った。こちらのまとめの方で、むじん書院のむじんさん、「dragoner.ねっと」のdragonerさん等、たくさんの方から激励やご指摘を頂いた。ほんとうに有難いことである。なお、トウギャッターの上部に表示しているタグは、読者の方が付けたものであり私の付したものではない。はじめは私も2ちゃんねる調で書こうかとしていたが、某掲示板で、なんだか倉山氏じみた文体になっており、事実を淡々と述べていくほうが優れているというご指摘を受けて改めた。それがこの手のトンデモ本の指摘としては最も優れた方法だと思う。2ちゃんねるの倉山満スレや「カリスマの砦」なる倉山氏の掲示板(?)も見たが、そこにもこのサイトのURLが貼られていた。私は浅学非才の身、ただただ戒慎恐懼するばかりである。

 さて、指摘を続けたい。

4、倉山氏の先秦思想(孔子・韓非子)解釈の誤り・その1 孔子


倉山「嘘だらけの日中近現代史」P28~31
P28「大陸では、毛沢東が突如として『孔子は封建的だから批判せよ』と言い出してから儒学は肩身が狭くなります」

 孔子・儒教批判は既に後漢の王充、明の李卓吾などが行っており、近現代中国では五四運動で李卓吾の説を元に呉虞(ごぐ、1872‐1949)などが盛んに儒教批判、孔子批判をやっているのである。魯迅の『狂人日記』もその延長線上にある。毛沢東はその説を政敵追い落としに使っただけのことである。毛沢東は孔子批判の元祖でもないし突如おっぱじめたわけでもない。

p29「そもそも、今に伝わる孔子は、生涯成功しなかった経営コンサルタントのようなものです。孔子は春秋時代(紀元前五五一年~紀元前四七九年没)の人ですが、生涯付き従った弟子はわずか七十人という、決して成功者とは言えない人生を送りました。この時代のコンサルタント(諸子百家と言われるほど多くの競合者がいました)は、成功すると大国の宰相に抜擢されます。」「孔子はハッキリ言って負け組でした。」

 孔子は天下は取れなかっただけで、十分成功していると思うのだが。孔子は五十二歳の時に「魯の中都の宰(中都という町の町長)」になり、功績で前500年春には大司寇(法務大臣)になっている。その前にいつか分からないが司徒(外務大臣)もやっている。晩年は国老(元老)として厚遇されていた。(史記・孔子世家。官位の解釈は貝塚茂樹『論語』中央公論社の説により、百度百科などで補った)

 これは実は破格の待遇である。諸子百家で閣僚にまで上り詰めたのが確実なのは他に管仲(管子、斉の丞相[総理大臣])、商鞅(秦の丞相)、呉起(楚の令尹[総理])、李克など意外と少ないのである。商鞅や呉起より下だから孔子は失敗したというのもどんなものか。二人共悲惨な死を遂げていて成功者と言えたものかどうか。孔子より官位が上で畳の上で死んだ諸子百家の大物は管仲くらいであろうか。
 内閣参与レベルでも孟子くらい、将軍クラスで孫武・孫ピンくらいだから、孔子を成功しなかったというのもなかなか大変である。
 諸子百家が全部成功者だったかというと随分疑わしい。縦横家の蘇秦が六国の丞相を兼ねたというのは現在では疑問視されていて彼の官位はよくわからないし(詳しくは『世界の歴史2』中央公論新社参照)、荀子は地方県令止まり、韓非子は生涯無役、老子・荘子はノンキャリアの小役人止まりであった。

 弟子七〇人というのも誤りである。「弟子蓋三千焉,身通六藝者七十有二人」(孔子世家)という。孔子の弟子は七十人というのは子供のお習字の教科書の「三字経」が覚えやすく概数を言ったまでにすぎない。倉山氏はこの間の「チャンネルクララ」の放送でも同じようなことを言って、ドヤ顔で「孔子は失敗した大前研一みたいな人ですよ!」と言っていた。大前さんにも失礼だと思うし、誰か恥ずかしいから放送関係のスタッフは指摘してあげた方がいいよ。
 それから、孔子世家に付き従った弟子の数の記載はないです。

倉山満『嘘だらけの日中近現代史』の誤りについて(2)

昨日に引き続いて、倉山満『嘘だらけの日中近現代史』(扶桑社新書140,2013)の誤りについて記述する。
なお、底本には2014年1月31日の初版第12刷本を用いたが、初版初刷なら分からないでもない凡ミスが、
この本は何故か大量に出てくるのである。

3,間違いだらけの秦王朝滅亡「三世皇帝?」「鹿が馬?」


倉山氏は言う。
「秦は、二世皇帝の時代にはもう腐敗と動乱が始まり、三世皇帝の時代に始皇帝の死後三年で滅んだのは記述のとおりです。「馬鹿」という言葉が生まれるのもこの時代です。つまり皇帝が馬を見せて『これは鹿だ』と宣言し、『いえ陛下、これは馬です』と間違いを正した家臣を殺したという逸話に由来します。」(同書P24)
今後の引用文は、上記のように誤記もしくは学問的に誤謬の有るおそれのある箇所は字を大きくし、下線を引くこととする。

この短い文章で既に4箇所も誤りがあるのである。

1)三世皇帝 
 秦に三世皇帝などという人物は存在しない。なぜかといえば、二世皇帝の末期には既に反乱軍が旧・秦国以外の領域をほとんど支配しており、王朝の体をなしていなかったので、二世皇帝の後を継いだ子嬰は「秦王」と称して三世は名乗らなかったからである。このあたり史記でも通鑑でも読んでおれば分かりそうなものである。

2)馬鹿という言葉
 この言葉の語源には諸説あるが、この逸話を出典とする説はかなり疑問があり、現在ではほとんど顧みられていない。まず、「馬鹿」を音読みして「バカ」とならない(バロクとしかならない)という点が最大の弱点である。現在有力なのは、天野信景の梵語「莫迦」語源説、佐藤喜代治の禅語「破家」語源説、松本修の白氏文集「馬家」語源説の三説であろう。詳しくは松本修『全国アホ・バカ分布考』(新潮文庫)をお読みいただきたい。

3)皇帝が馬を見せて『これは鹿だ』と宣言し
 史記秦始皇本紀を見る限り、丞相の趙高が皇帝位を乗っ取ろうとしてやったことである。皇帝がいったのではない。以下に史記当該部分の原文を引く。
「八月己亥,趙高欲為亂,恐群臣不聽,乃先設驗,持鹿獻於二世,曰:“馬也。”二世笑曰:“丞相誤邪?謂鹿為馬。”問左右,左右或默,或言馬以阿順趙高。或言鹿(者),高因陰中諸言鹿者以法。後群臣皆畏高。」
 すなわち、丞相の趙高が帝位に登る野望を持ち、おのれの意に臣下たちが従うかどうか試そうとして、鹿を持ってきて「馬だ」といったのである。この違いは大きいよ。あと、馬と鹿がどこでひっくりかえったんでしょうね…史記を読んでおればこんなミスはしないのである。

4)『いえ陛下、これは馬です』と間違いを正した家臣を殺したという逸話に由来します。
 相手が丞相なんだから陛下なわけがないんですが…馬と鹿をまた勘違いしている。

 このように、わずか数行で次々に誤りが出てくるのである。

 ちなみに、史記は太平洋戦争中、学徒出陣した将校の方々にも読者があり、もはや靖国におられる方々や、その戦友の方々にも史記研究家はおられたのである。例えば、小竹文夫氏(史記の現代日本語訳を初めて行った)・武田泰淳氏(名著『司馬遷ー史記の世界』の著者)などである。戦地で史記を紐解かれた方も多く、「シナはこんなことでどうなることじゃ…だが、わたしはシナを史記があるかぎり見捨てんよ」と小竹氏は戦地で述懐されたそうだ。
 小竹文夫・武田泰淳・牧田諦亮の三氏は陸軍にいたが終戦処理で中国に残っていた。昭和21年、三人で正月に史記滑稽伝を読んでうたた感慨に堪えなかったという。その頃日本では鈴木貫太郎首相が部下から貰った史記を喜んで読んでいた。
 こういう命がけで日本のため、東アジアのために働かれた方々の過去の業績を粗末にしているように私には思える。
 そういう経緯もあり、史記は昔の反中保守知識人にも愛読者が多いのだ。日本人は史記が好きだし、史記そのものが中華思想に反対して匈奴を褒めているので、反中知識人でも昔は史記を褒める人が多かった(渡部昇一とか谷沢永一とか)のである。渡部昇一氏は十八史略名言集を書いているぐらいだ。

倉山満『嘘だらけの日中近現代史』の誤りについて(1)

倉山満『嘘だらけの日中近現代史』(扶桑社新書)という本が売れているようだが、
この本には多くの誤りや疑問箇所があるようである。

この本は、「日本の中国研究者が書けないタブーを書く!嘘つきチャイニーズによる
プロバガンダの手口をバラす!」と帯に書かれているのだが、私が見たところ、
内容が余りにも間違いだらけであるようだ。

この本にはアマゾンではほとんどが肯定コメントをつけている。
これを見て私は、「ああ、批判を受けつつ、中華思想に抗ってきた、桑原隲蔵(じつぞう)先生(※1)、
宮崎市定先生(※2)、高島俊男先生(※3)のような、先哲の学問の遺産は受け継がれていないのだな」
「斯道、ここに滅びんとしているのか」と嘆きたくなった。

目についたところだけ、ポツポツと批判したいと思う。

1、「中国史は繰り返す」?!いや、どこが繰り返しなんだ?


 倉山氏は、以下のように言う。(14ページ)
「中国史のパターンを図式化してみましょう。」

「一、新王朝成立
二、功臣の粛清
三、対外侵略戦争
四、漢字の一斉改変と改竄歴史書の作成
五、閨閥、軍閥、官僚など皇帝側近の跳梁
六、秘密結社の乱立と農民反乱の全国化
七、地方軍閥の中央侵入
八、一に戻る」

というのだが、これ、全然中国歴代王朝は繰り返していないんだよなあー。
そもそも倉山氏が例としてあげているのは秦漢2王朝に過ぎない。
実は、これらの道筋をきちんと踏んだ王朝など秦漢2王朝以外にほとんど存在しないのである。

もっといえば、ここに出てこない要因で滅亡した王朝のほうも多いのである。要するに他の王朝や異民族に攻められて滅ぶのである。
 
他の王朝を上げてみよう。倉山氏の上げた王朝滅亡要因を、どれだけの王朝がちゃんと法則を踏んだかというと、
踏んでいる王朝のほうが少ないのだ。これ、歴史法則といえるのか?
三国魏 1→5→7(司馬氏に乗っ取られ滅亡)
西晋 1→5(異民族の匈奴[漢]に攻められ滅亡)
東晋 1→5→7(軍閥により滅亡)
北魏 1→4→7(東西分裂)
南朝劉宋 1→5→7(軍閥により滅亡)
南斉 1→5→7(軍閥により滅亡)
陳 1→5(隋に攻められ滅亡)
隋 1→5(唐により滅亡)
唐 1→3→4→5(武韋の禍)→7(安史の乱)→5→6(黄巣の乱)→7(滅亡)
北宋 1→5(金により滅亡)
南宋 1→5(元により滅亡)
大元 1→3→5(明により滅亡)
明 1→2→3→4→5→6(李自成に攻められ滅亡)

と、見事なまでに倉山氏が上げた1~8を全て繰り返した王朝がないのである。途中までちゃんとやってるのが明ぐらいしかないぞ!法則として成立してるのか?

なぜかといえば、倉山氏の中国史認識は実は三国志演義の冒頭で羅貫中が示す史観に似ており漢朝以外にはこの図式は綺麗に当てはまらないのだが、それを無理やり当てはめたので実に変なことになっているのである。

2、おかしな中国王朝滅亡の要因


倉山氏が上げる王朝滅亡要因も、いずれもオイオイと言いたくなるものである。
まず、「二、功臣の粛清」だが、こんなことが出来たのは実は皇帝権力が非常に強い時だけであって、特に中世中国でそんなことをしたら、逆に皇帝が殺されたであろう。倉山氏は中国中世の貴族制度を何一つ分かっていないようだ。東晋の皇帝を見るがいい、まともに家臣に指図できた皇帝のほうが少ないのだ。

それから「三、対外侵略戦争」もちゃんと出来た王朝はとても少ないのだ、漢・唐・元・明・清以外にまともに出来た王朝はない、東晋・北宋は失地回復すら出来ず、北魏も一度大きくなってからはやっていないのも同然である。

さらに「四、漢字の一斉改変と改竄歴史書の作成」に至っては噴飯物である。倉山氏はこんなふうに言っている。『中国の歴史を習うと、「皇帝が辞典(ママ)の編纂を行った」とする記述がありますが、あれは本当に言葉を変えているのです』(p20)この辺り長いので要約すると、「文字を使う中国は文字を持たない北方民族より弱いので、歴史を改ざんして、いじめられっ子がネット番長になるように陰口をたたいた。漢の劉邦は漢字を決めた。王朝ごとに辞典が編纂され言葉が代わった。歴史書も前の王朝のものを悪しざまに書いたものが後継王朝により作られる」というのだが、

これ、本当に学者が書いた本なのか?高校世界史レベルでも反証がどんどんあげられるんだけど。

まず北方民族は字を知らないという認識そのものが言語道断である。この倉山さんは女真文字、西夏文字、契丹文字、元のパスパ文字を知らず、魏収『魏書』や『元朝秘史』を知らず、薩都剌や耶律楚材を知らず、西田龍雄氏ら日本の学者の業績を知らないのだろうか。北方騎馬民族もどんどん漢化されて自国の文字を作るものも有れば、漢詩漢文に熟達して史書や詩文を著すものも大勢居たのである。さらに言えば、それらの多くは中国大陸では余り評価されず、日本の東洋史学が先んじているものも多いのである。例えば、西夏文字解読に成功したのは日本人の西田龍雄氏であるし、魏収『魏書』も本国で不当に評価されていたのを日本人の塚本善隆氏が再評価したのが研究の端緒である。「日本の中国研究が書けないタブー」を書こうとするほどの人がなぜそういう初歩的認識がないのであろうか。残念でならない。

私は倉山さんが言った「劉邦が作った漢字」「始皇帝や劉邦が作った辞典」なるものを是非見たいものだ。そんな話は聞いたこともない。

まず漢字の字体の変遷を通説に従ってあげると、秦の始皇帝が小篆を作ったのは事実なのだが、漢の隷書は伝説では秦の程邈なる無名の人の作であると言い、小役人の間で勝手に出来たものであるとされる。劉邦とは縁もゆかりもない。後漢末に出来た楷書も皇帝と縁もゆかりもない。伝説では王次仲なる人物の作だという。草書や行書もまた同じ。強いて言うなら後漢の章帝が草書の元を作ったという伝説が有るぐらい。藤堂明保氏は「実務に携わる底辺の役人たちが、能率を良くするために考えだした現場の知恵」(『中国の文字とことば』)としている。そもそも倉山氏の話が正しいのなら、王朝ごとに漢字が違うことになり、漢文などほとんど読めないはずである。

勅撰の辞典の方も噴飯物だ。だいたい、『爾雅』『釋名』『説文解字』『切韻』は何時勅撰になったのだろうか。『切韻』のことぐらい師匠の岡田英弘さんにでも聞いてほしいものだ(鮮卑人陸法言ほかの選)。勅撰の辞書なんか北宋の『広韻』、明の『洪武正韻』、清の『康煕字典』『佩文韻府』等以外にあるんでしょうか?(元の中原音韻は私撰)ほとんどの王朝がやっていないことをあたかも中国歴代王朝を貫く法則みたいに良く言えたものだ。

史書の方は一々言うまでもないが、後漢書がだいぶ後の南朝宋の完成だったり、後の王朝が直近の王朝の史書を書けたほうが少ないのである。

(※1)桑原隲蔵(じつぞう)…明治3年12月7日(1871年1月27日) - 1931年(昭和6年)5月24日)、
京都大学教授。「支那人間に於ける食人肉の風習」「支那人の文弱と保守」「支那人の妥協性と猜疑心」
など、中国史に対する批判的研究で有名。宮崎市定の師匠。司馬遼太郎は桑原を褒め称えて、
「人喰いの歴史を追求したので中国人からは大変いやがられましたが、実証ということほど大事なことが有るでしょうか」
[要約](司馬遼太郎講演集)としている。

(※2)宮崎市定(みやざき・いちさだ)…1901年(明治34年)8月20日 - 1995年(平成7年)5月24日)。
戦後日本を代表する東洋史学者。東洋史で数多くの業績があるが中国政府に対して批判的な立場も取り、
「南沙諸島の領有権を主張する中国を叱る」という文章もあるほどである。中国共産党では「反動歴史家」と
言われて論文の訳も「高級幹部・専門家向けの読み物」として一般の読書を一時期禁じていた。

(※3)高島俊男(たかしま・としお)…1937年1月16日ー。中国文学者。前野直彬門下。「『支那』は悪い言葉だろうか」などの論考で有名。「中国の王朝を倒すのは多数の流民をひきつれた『盗賊』であり、その最終勝者が次の王朝を開く。毛沢東の共産革命軍もその一種だ」と論じた。(いわゆる毛沢東盗賊論)畏友、犬大将氏の先輩に当たる。

魏延の家系

百度百科 魏氏
http://baike.baidu.com/view/33735.htm?from_id=2659700&type=syn&fromtitle=%E9%AD%8F%E6%B0%8F&fr=aladdin

魏延の氏である魏氏について色々書かれているのだが、魏延の本貫である義陽(現・河南省南陽市)に近い魏氏
というのはいないようである。実は『三国志全人名辞典』にも、義陽に近い魏氏は出てこないのであった。

『三国志全人名辞典』に出てくる魏氏の人名を上げておく。

魏越 呂布の武将
魏延 義陽の人、蜀の征西大将軍
魏舒 任城の人 晋の重臣
魏続 呂布の武将
魏遷 呉の名士 上虞の人
魏騰 上虞の人
魏バク 呉の人
魏諷 沛の人
魏平 魏の金城の守将
魏攸 右北平の人
魏朗 魏騰の祖父 後漢河内太守
魏狼 蜀の少数民族の長

呉の「上大将軍」は「大将軍」より下か~叔嗣氏の新説について

最近、三国時代の官制研究で意欲的な論考を出しておられる、歴史サイト「歴華泉」の叔嗣氏が、「陸遜の上大将軍は、諸葛瑾の大将軍より下位である。」
(http://rekishiizumi.web.fc2.com/4/5.html)という説を出された。

叔嗣氏の論考については正史三国志原文や諸子を踏まえた堅実なものだが、この説については既存研究が誤っていることも有り、私はいささか勇み足ではないかと考えるのである。なぜなら元の胡三省が「陸遜の上大将軍は、呉の新設官位で、諸葛瑾の大将軍より上位である。」と述べているからである。

1)「東洋歴史大辞典」の誤謬
「東洋歴史大辞典」より
春秋時代の晋の獻公が上軍将軍を置き楚の懐王が宋義を上将軍に任じが、上将軍の名号が始めて見えるのは前漢初に呂録が上将軍に任じられた時である。その後はしばらく見られないが、三国時代になり曹真や陸遜を上大将軍に任じ大将軍の上の位とされた。(引用は「歴華泉」より)

そもそも、叔嗣氏が引くこの辞典の記述は誤りがあるようだ。というより、この辞典の編者はどこかから孫引きをしたものではないかと思うほど間違いだらけである。大きい字で書いた所は全て誤り若しくは疑問である。もっともこの辞典は昭和12年のものなので、その頃の辞書作りはどこもいい加減であった。これは叔嗣さんというより辞書が悪い。

まず「上将軍の名号が始めて見えるのは前漢初に呂録が上将軍に任じられた時である。」というのがダメ。
資治通鑑周紀 《赧王中》 三十一年には、
 「燕王悉起兵,以樂毅為上將軍。〔上將軍,猶春秋之元帥。帥,所類翻。〕」
(燕王はことごとく兵を起こし、楽毅を上将軍とした。胡三省いわく、上将軍は、春秋時代の元帥と同じようなものである。(反切略))…同様の記述が史記燕召公世家にもある。楽毅を知らないんですかねぇ、この辞書の編者は。

また、史記の注釈書「史記正義」には、『會稽典録云:「范蠡字少伯,越之上將軍也。」』とあり、陳嘉炎・左言東『中国官制縦横談』(新華出版社)では、これを上将軍の語の初出としている。史記正義をどこまで信用するのかという問題になるが、少なくとも老子に出てくる官職が漢初に初めて出てくるというのは考えにくい。やはり春秋戦国の頃にすでにあったのだろう。また、後漢書にも「上將軍隗囂」というのが出てくるので、その後置かれなかったというのも間違い。

山川出版社 「中国史1 先史~後漢」もどうかと思う。
「 山川出版社 「中国史1 先史~後漢」より
大将軍は三公に比せられ、驃騎将軍・車騎将軍・衛将軍がそれに次ぎ、さらにそれに次ぐ者として驍騎将軍・上将軍・伏波将軍などがある。」
というのだが、宋書百官志には「漢東京大將軍自為官,位在三司上。」(後漢の大将軍は三公の上)とあるので、これまたダウトである。前漢では確かに大将軍=三公だったので、制度の変遷を多分忘れているのだと思う。驃騎将軍・車騎将軍・衛将軍もおかしいのだが、それは又別の機会に触れたい。叔嗣さんは通典が元ネタではないかと推測しておられるが、通典は有名な史書だが唐代のものだから宋書より資料価値はやや劣るのではないか。なにしろ宋書はあの裴松之のお仲間が書いたものが元になっており、裴松之は三国時代の生き残りに取材しているのだから…

2)胡三省の見解「上大将軍は大将軍の上である」
 元の学者で胡三省という人がいた。この人はとにかく正史・野史をメチャクチャ研究した人で、30年掛かりで資治通鑑の注を書いた人である。その資料価値は、私の大先輩の宣和堂さんの文章に詳しいのでそれを引く。
「胡注は《資治通鑑》の注釈という枠にとどまらず、歴代史書の注釈の中でも最も評価が高い。下手をすると司馬光の本文よりも胡三省の注釈の方が資料価値が高いとすら言われることがあるくらいである。史炤の《資治通鑑釈文》を参考にしたと言っても、ほんの一部に過ぎないし、分量もレベルも格段の差がある。
 胡注は特に地理に関する注釈で評価が高く、地名の異同、州県の建置離合については他の追随を許さず、却って正史の注に胡注が引用されている。また、胡三省の注釈は地理だけにとどまらず、行政沿革、軍事外交、制度の変遷から、訓詁字義、博物地理などにも高いレベルの注釈が施されており、《資治通鑑》の記事の全容がこれによって明らかになるのである。細かいところでは、人名の呼称が文章の前後で不統一になっている所などの注は有り難い。
 まさに胡三省という人物が三十年の歳月を費やしたという、圧倒的な《資治通鑑》研究の成果が胡注という形で実を結んでいるのである。(http://www.geocities.jp/zizhitongjianjp/tugan2.html)」

実は、この胡三省が「上大将軍」について書いているのである。

魏紀 第071卷 魏紀三 (AD228–AD230)  《烈祖明皇帝上之下》 三年 p-2256
 九月,吳主遷都建業,皆因故府,不復增改,〔復扶又翻。〕留太子登及尚書九官於武昌,〔九官,九卿也。〕使上大將軍陸遜輔太子,并掌荊州及豫章三郡事,董督軍國。〔吳於大將軍之上復置上大將軍。三郡,豫章、鄱陽、廬陵也。三郡本屬揚州,而地接荊州,又有山越,易相扇動,故使遜兼掌之。

 原文の意味は正史三国志と同じだから略す。
 胡三省は以下のように言う。「呉は大將軍の上に復た上大將軍を置く」
 そう、呉は上大將軍を新設したのだというのである。胡注の別の箇所でも呉の上大將軍新設について触れられているので、多分、これはエポックメーキングなことなのだろう。

 (随時加筆訂正します)
プロフィール

松平俊介

Author:松平俊介
松平俊介(まつだいら・しゅんすけ)
雑誌ライターやwebディレクターをしております。webデザインからwebマーケティング、ライターまで何でもやっております。これまでに色々なプロモーションを手がけて参りました。過去には週刊SPA!等に関わっておりましたが、現在は「連載JP」(東京産業新聞社)や、neverまとめ(NHNジャパン)を中心に執筆しております。
趣味は街歩きと歴史研究です。

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