06/04のツイートまとめ

tyuusyo

推しをめぐって争いまで起きていたのか… https://t.co/8iCnc6GfGy
06-04 11:07

横綱白鵬は読書家として知られ、角界でも有数のインテリだそうだが、ちょっと前に「モンゴルの王子が沖縄にいたことがあるんですよ」とインタビューで話して新聞に取り上げられていた。これ、元の天元帝の第二皇子が琉球に流された話だと思いますけど、白鵬はそれをどこで知ったんだろう…
06-04 11:05

ここまで変わるのもスゴイですな… https://t.co/QM1ay36wAi
06-04 10:45

ああそうか、三国志の「先主」「呉主」が後世の「蒙古主」「金主」などになって残ってるわけか。 https://t.co/96TQMIlkZT
06-04 10:26

この頃は日本の民衆まで勝手に年号を創作しだすからな。中国も三国志状態で日本も南北朝だからもうカオスですよ。この頃天候不順とか疫病流行とか社会不安だからどこの国の政府も弱体化しているんだよ https://t.co/bJUXMi5CSj
06-04 10:12

日本の南北朝時代は中国も実質的に南北朝で、また群雄が別の王朝を開いたりするからもう年号はメチャクチャ。例えば1368年は足利義満が将軍になった年ですが、南北朝・元朝・明朝の他に、中国四川省に「夏朝」なる国が出来て新年号を制定しだす… https://t.co/4RUvqVS7Us
06-04 10:01

日本が南北朝で中国も複数の王朝がある場合って4つ以上年号があったりするのな。例えば1355年は日本南朝・文和4年、北朝正平10年、中国元朝(北)至正15年、呉朝(後の明朝、南)龍鳳元年で他に私年号を使っている群雄が2つというカオス… https://t.co/wTkezE5F5R
06-04 09:56

なお、金・宋に加えて蒙古国(後の元朝)が出来てからは三王朝の年号を全部書くようになるのでとてもややこしいです。これ、実は吉川弘文館の歴史手帖もそうなのな。日本は南北朝程度で済んでよかったよ。年号が3つて。3つて。 https://t.co/cA5W9SHFkH
06-04 09:50

なおチンギスハンも即位前は「特穆津(テムジン)」呼ばわり、即位してからは「蒙古主」と政府扱い。 https://t.co/49u1InXaSM
06-04 09:46

『続資治通鑑』、元の末期の巻になると「呉王」なる謎の政府が登場するんですよ。誰だこいつ?と思ってみていくとなんとこれが明の朱元璋くんで、朱元璋くんが平侍時代は名前、大名になってからは「呉王」として政府扱いになるのね。他の群雄は「賊」。
06-04 09:35

減税が出てくるのは「代始めの徳政」に似たようなものだろうか。 https://t.co/HGuGbopFGe
06-04 09:11

ちなみにこれは元の世祖の即位の令のときの詔勅で、大赦令と減税の詔勅もセットで付いていたりする。 https://t.co/9ixPt3EOV5
06-04 09:10

文体が非常に教育勅語に似ておりまして、最後「先朝庶政,悉有成規,惟慎奉行,罔敢失墜。更賴宗親、勳戚,左右忠良,各盡乃誠,以輔台德。」と立憲主義?と忠君を説く所まで同じなのでこういうのは一種の決まり文句として歴代ずっとあったんでしょ… https://t.co/D8fXEojKJR
06-04 09:08

なお、『続資治通鑑』にはなんだか教育勅語みたいな記述もあり「乃下詔曰:「朕惟太祖聖武皇帝,受天明命,肇造區夏,聖聖相承,光熙前緒。迨我先皇帝,體元居正,然後典章文物,粲然大備。臨御三十五年…」という元の世祖フビライの勅語が載っていたりします。「太祖聖武皇帝」はチンギスハンのこと
06-04 09:05

南宋紀・(南朝)度宗・ 咸淳十年〔(北朝)元・至元十一年。(甲戌、一二七四)〕という表記もある。なお、北朝の巻「元紀」だと元紀・世祖・至元十三年〔(南朝)宋の景炎元年。(丙子、一二七六)〕という逆転した表記になる。 https://t.co/OCLATYKuA5
06-04 09:02

だから史書の記述が、(南朝)真宗・天禧四年〔(北朝)遼・開泰九年。(庚申、西暦1020)〕みたいに、南朝の帝、南朝年号、北朝年号、干支、西暦という記載になる(北朝の帝は非正統なので記さない!) https://t.co/M5juvH90En
06-04 08:57

中国の王朝が南北に分かれているとき、だいたい南朝を正統として史書は書くことになっているんですよ。故・岡田英弘先生によると、これは『資治通鑑』にはじまるもので、中華思想の表れだそうです。北朝は南朝を支配するまで非正統という扱い。例え… https://t.co/xZKx30qOqD
06-04 08:54

遼の主というのは遼の皇帝のことで、『続資治通鑑』は南の宋王朝を正統としているので北朝側を「主」と言っているのですね。日本の南北朝時代と同じだと思います(というより南朝正統論って中国史から来ているのでは) https://t.co/HF0VhrLxK4
06-04 08:51

『続資治通鑑』には「高麗王の詢は表請して藩と称して貢を納め,遼の主は之を許す。」(宋の真宗・天禧四年、遼の開泰九年の条)という記述があり、これは高麗(今の朝鮮半島にあった国)が中国東北部を支配した遼王朝に朝貢したことを記している。「藩と称する」は服属する意だと思われる
06-04 08:49

『続資治通鑑』太宗・太平興國二年の条「民甚苦之,不敢告。帝在藩邸,頗聞其事。」ここでいう「帝」は宋の太宗で、即位前は「晋王・泰寧軍節度使・中書令・開封府尹」だった。江戸時代で言えば尾張藩主兼老中筆頭兼江戸町奉行みたいなもの。だから… https://t.co/h30OzKvcbD
06-04 08:19

「藩」は江戸時代の漢学者が使い始めたせいか、江戸時代の用例だと「会藩」(会津藩のこと)「薩藩」(薩摩藩)のように、地名を一字で呼ぶ中国風の呼び名が多い。ちなみに仙台藩は東藩といったりするのだが、これは史記由来という由緒正しい呼び名だったりする(元々は戦国時代の斉国のこと)
06-04 08:13

中国史で「藩」という呼び名の用例を探っていくと、「東藩」「北藩」「大藩」「諸藩」「藩邸」など『資治通鑑』『続資治通鑑』には結構出てくるようだ。特に宋の趙匡胤は後周の忠武節度使の出身なので、このあたりの『続資治通鑑』には「藩」という名前がよく出てくる。
06-04 08:07

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松平俊介

Author:松平俊介
松平俊介(まつだいら・しゅんすけ)
雑誌ライターやwebディレクターをしております。webデザインからwebマーケティング、ライターまで何でもやっております。これまでに色々なプロモーションを手がけて参りました。過去には週刊SPA!等に関わっておりましたが、現在は「連載JP」(東京産業新聞社)や、neverまとめ(NHNジャパン)を中心に執筆しております。
趣味は街歩きと歴史研究です。

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