「江戸しぐさ」のヘンテコさ

「江戸しぐさ」というのがあるでしょう、最近になって、関西人が始めたACが、江戸の伝統仕草だといって
CMを流したりしているやつだ。

この、「江戸しぐさ」の家元はNPO法人江戸しぐさというところなのだが、ここに書いてあるhttp://www.edoshigusa.org/about/「江戸しぐさの誕生とその系譜」という文献があまりにもヘンテコなのである。

実は、似たような体験を芝三光さんはしている。
『赤城の子守唄』などのヒット曲を持ち、直立不動で歌うことで知られていた東海林太郎との思い出だ。あるとき、何の会合だったか、東海林太郎が芝三光さんに近づいてきて、こういったそうだ。
「下品(げぼん)なものでして、、、」
ああ、この方は江戸しぐさをご存知だ、と芝さんは瞬間的に思ったという。
上品(じょうぼん)、中品(ちゅうぼん)、下品(げぼん)。人間のたしなみの位に応じてこんな表現を江戸ではした。自ら下品というのはへりくだっての表現で、生半可の人では知らなかったし、つかえなかった。


・東海林太郎は秋田市出身である。秋田の人が何故、江戸しぐさを知っているのか?
・東海林氏の来歴について、姓名研究家として有名だった丹羽基二は以下のように述べているという。
『この氏は、古くから全国に及んでいるが、東北ことに山形、秋田、宮城県には多い。古くは、百済琳聖太子の未裔と称する周防の多々良氏族の東海林丹羽守(多々良弘清)、平城天皇の皇子阿保親王を祖(大江氏の末とも奥州阿部氏の末とも云う)と称する羽前幸生城主の東海林隼人元宗をはじめ、江戸時代にも割合著名武士が多い。
地名としては、山形県寒河江市の東海林澤、東海林平、山形県の東海林山をはじめ、東北地方に散見出来る。
氏は、大陸渡来の林(リン)氏が日本(又は日本の東海地方)に帰着し、日本の林氏という意味で東海林(トウカイリン)と云っていたが、これら林氏の多くは、大陸渡来の承仕師(しょうじし)として、寺院や公家の佛事の雑役などを勤めていたために、いつとはなしにしょうじと呼ばれるようになったものと思う。』
(http://www.edoshigusa.org/about/genealogy1/01/より引用)

出羽の城主の子孫で、秋田市で育った東海林太郎氏が商人の仕草である「江戸しぐさ」を知っているというのも変な話ではないか。NPO法人江戸しぐさが主張する「明治初年の江戸っ子狩り」を首肯しても、出羽の武士が江戸しぐさを知っていることには何一つつながらない。
・それから、上品・中品・下品というのは『人間のたしなみの位』などではなく、仏教用語である。下品下生というのを知らないのだろうか?


げ‐ぼん【下品】
1 仏語。極楽浄土に生まれる人を、能力・資質の差によって上・中・下に3分した、その最下位。→九品(くほん)
2 下等。
「―の恋の句に一面滑稽味を帯びているのがある」〈寅彦・俳諧の本質的概論〉
げぼんげしょう【下品下生】
仏語。下品を上生・中生・下生の三つに分けた、その最下位。(大辞泉)


江戸講の流れを汲む1946年発足の「東都茶人会」、65年設立の「江戸を見直すミーティング」、74年につくった「江戸のよさを見なおす会」で使った。


茶人会という名称なのに、「江戸しぐさ」関係者に茶道関係者がほとんどいないのは不思議である。「東都茶人会」という名称もすごい。三越を繁栄させた茶人の高橋義雄の「東都茶人記」を知らないのだろうか?高橋義雄氏の名前も出てこないから不思議である。高橋氏は1937年に亡くなっている。1946年発足「東都茶人会」であれば、江戸茶人の大物だった高橋氏関係者が主催しそうなものだが、なぜ茶道と縁が無さそうな芝氏がやっているのか?

GHQの中で、江戸しぐさは評判になり、帰国したニューヨーカーたちが、高級専門店が立ち並ぶフィフスアベニュー(五番街)でおどけて実演したことがある。早速、通行人たちが面白がってまねをし、一世を風靡した。軍関係の新聞『スターズ・アンド・ストライプス』に紹介されたという。
「以来、この三つの瞬間芸がイコール江戸しぐさになりました」越川禮子さんが明かす秘話である。
古くは「寛政の改革」の経験から、江戸しぐさを伝承するため、江戸講は一種の秘密結社として活動、その内容は文書には書き残さず、口伝が当たり前だった。仮に書いてあっても公開しなかった。陳腐化するのを避けるとともに、商売繁盛を約束する貴重なノウハウの流出を避けた。


この辺り、あまりにも変すぎて突っ込む気にもなれないのだが(蛮社の獄を知らないのだろうか?)

『遠野物語』などで知られる民俗学者の柳田国男から戦後、取材の申し込みを受けた。
しかし、ゆかりの古老たちは柳田の取材を断った。
『週刊朝日』を発行部数百万部の大雑誌にした名編集長として名高い扇谷正造も取材に意欲を燃やしていた。扇谷は芝さんと意気投合、定年になったら一緒に研究しようと誓い合ったが、いざ取材に取り掛かろうとしたところで夭逝、実現しなかった。


柳田は戦後、江戸研究などしていたとは思えない、新憲法制定に携わったあとは晩年のライフワーク「海上の道」に取り組んでいたのではなかったか。

もっと変なのは扇谷正造(1913-1992)。扇谷氏は79歳まで生きている方なのだが、「夭逝」?!
60歳定年として19年もご存命だったのだが、扇谷氏の多数の著書の中に江戸関係のものがひとつもないんだけど。その上、扇谷氏も宮城県遠田郡涌谷町出身だ。江戸しぐさに興味をもつだろうか?

「とにかく、しつっこくて、この卑弥呼様には生殺しの目に遭いました」
公開しないはずのものを本にまでされてしまったものだから、半分はそのいいわけだ。
しかし、卑弥呼といい、生殺しに遭ったといい、江戸人らしい最大の褒め言葉だった。


卑弥呼について一般人がワーワー言い出したのは戦後、特に宮崎康平の『まぼろしの邪馬台国』(1965年(昭和40年)連載開始)以降じゃないでしょうかねえ。藤間生大の『埋もれた金印-女王卑弥呼と日本の黎明』(岩波新書)ですら1950年刊行なのだ。江戸時代に邪馬台国論争ってそんなにブームだったのか?卑弥呼を「東夷の女王」といった本居宣長が頭を抱えそうである。

どうも、この江戸しぐさの歴史を書いている人は、歴史的知識というか、常識がない人のようだ。
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プロフィール

松平俊介

Author:松平俊介
松平俊介(まつだいら・しゅんすけ)
雑誌ライターやwebディレクターをしております。webデザインからwebマーケティング、ライターまで何でもやっております。これまでに色々なプロモーションを手がけて参りました。過去には週刊SPA!等に関わっておりましたが、現在は「連載JP」(東京産業新聞社)や、neverまとめ(NHNジャパン)を中心に執筆しております。
趣味は街歩きと歴史研究です。

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