劉備は鄭玄の弟子だった

ちょっとしたメモ。

『資治通鑑』魏紀・正始七年条にこうある。
(その前に費イ(費禕)が大赦令を行い、批判されたことを記して…)
初,丞相亮時,有言公惜赦者,亮答曰:「治世以大德,不以小惠,〔治,直之翻。〕故匡衡、吳漢不願為赦。〔匡衡疏見三十八卷元帝永光二年。吳漢言見四十三卷光武建武二十年。〕先帝亦言:『吾周旋陳元方、鄭康成間,〔陳紀,字元方。鄭玄,字康成。〕每見啟告治治亂之道悉矣,曾不語赦也。〔治,直吏翻。〕若劉景升、季玉公子,〔劉琮,字季玊。〕歲歲赦宥,何益於治!』」〔治,直吏翻。〕由是蜀人稱亮之賢,知禕不及焉。〔蜀人賢孔明而劣費禕,固不特惜赦一事而已。〕

訳)諸葛亮が丞相だった頃、「丞相は大赦をなかなかしないのですね」といったものがあった。諸葛亮答えて、「世の中を治めるには大いなる徳をもってするべきだ。つまらぬ恩で治めるべきではない。だから元帝の時の匡衡も、光武帝の時の呉漢も大赦を願わなかったではないか。先帝劉備様もこういっておられた、「私はこれまで陳紀どのや鄭玄どのの所へ行き、政治についていつも素晴らしい教えを受けていたが、大赦の話は両先生ともお話になったことがない。にも関わらず、劉表殿や劉焉どの・劉璋どのの親子ときたら、まあ年ごとに大赦を出すじゃないか。政治にいい影響がないだろうに!」と。
こうして、蜀の民衆は「やはり諸葛亮様は偉かった、費イは遠く及ばない」といっていた。

よく、「三国志演義では劉備は鄭玄の弟子だが、正史ではそうではない」といわれるが、演義にはちゃんと元ネタがあったのである。これの出所は正史三国志後主伝裴注に引く「華陽国志」で、以下のようにほとんど同文である。

華陽國志曰:丞相亮時,有言公惜赦者,亮答曰:「治世以大德,不以小惠,故匡衡﹑吳漢不願為赦。先帝亦言吾周旋陳元方﹑鄭康成閒,每見啟告,治亂之道悉矣,曾不語赦也。若劉景升﹑季玉父子,歲歲赦宥,何益於治!」臣松之以為「赦不妄下」,誠為可稱,至於「年名不易」,猶所未達。案建武﹑建安之號,皆久而不改,未聞前史以為美談。「經載十二」,蓋何足云﹖豈別有他意,求之未至乎!亮歿後,延熙之號,數盈二十,「茲制漸虧」,事又不然也。
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松平俊介

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松平俊介(まつだいら・しゅんすけ)
雑誌ライターやwebディレクターをしております。webデザインからwebマーケティング、ライターまで何でもやっております。これまでに色々なプロモーションを手がけて参りました。過去には週刊SPA!等に関わっておりましたが、現在は「連載JP」(東京産業新聞社)や、neverまとめ(NHNジャパン)を中心に執筆しております。
趣味は街歩きと歴史研究です。

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